江戸川区 水との闘いの歴史 明治~昭和

江戸川区 水との闘いの歴史 明治~昭和

歴史を語るにはさまざまな視点があります。ここでの視点は、水路や川の開削、地盤沈下、海の埋め立てといった<水と土地との関わり>です。

現在の江戸川区という土地にあっては、徳川家康による新川に始まり、明治以降は荒川放水路中川放水路江戸川放水路新中川放水路といった水路の開削が行われてきました。

江戸時代の水路開削

徳川家康は、寛永6年(1629年)に水路整備の一環として船堀川を開削しました。それが新川です。家康が最初の水路としてつくった道三堀や小名木川と同時期に開削されました。新川は利根川~江戸川~新川~小名木川~隅田川を結ぶ北関東や東北から江戸市中へ様々な物資を運ぶ重要な運河となりました。とくに、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されました。江戸中期には成田詣での人々を乗せた行徳船が行きかっていたといいます。新川は江戸川(現在の旧江戸川)と中川(現在の旧中川)を結び、小名木川へとつながる重要な水路になりました。

明治時代の荒川放水路開削

荒川(放水路)の開削は、明治43年の洪水被害を契機として計画されました。1911年(明治44)に荒川放水路事業が始まり、隅田川に堤防がなくても川が氾濫しないことが目指されました。この事業により用水路予定地の江戸川区内の村の一部が川に沈むことになりました。1,300世帯の住民が移転を余儀なくされたといわれています。移転対象地域には、民家や田畑ばかりではなく、鉄道や寺社も含まれていました。

大正時代の地盤沈下・昭和時代の埋め立て

また、水路の開削とは別に、地下水のくみ上げによる葛西沖地域の地盤沈下が明治時代から徐々にはじまりました。大正期から昭和期に入ると急速に進行していき、中葛西の地域では 1年で23センチもの沈下を観測したといわれています。最終的には、この地盤沈下により178haの民有地が水没してしまいました(下の地図を参照ください)

他方、1970年代に始まった葛西沖の埋め立てにより新たに広大な土地が創出されました。水没した民有地以上の土地を創り出したのです。1989年(平成元年)、その埋め立て地に葛西臨海公園・葛西海浜公園(一部)が開園しました。

このように、江戸から平成にかけて、江戸川区において「運河、放水路の開削と地盤沈下による土地の消失」「埋め立てによる土地の創出」が断続的に行われてきたのです。江戸川区の歴史は「水との闘いの歴史」といえるでしょう。

※放水路とは、河川からの洪水を防ぐために河川の途中に新しい川を分岐させ、海や他の河川などに放流する人工の水路

放水路の開削・堤防改修・埋め立て(明治~昭和時代)

それでは、江戸川区の<水との闘いの歴史>を少し詳しくみてみます。ここでは、台風・高潮による水害・地盤沈下による土地の水没とそれに立ち向かう当時の人たちの叡智を結集した放水路の開削・堤防改修・埋め立てを取りあげます。

地盤沈下による土地の水没

葛西沖地域の地盤沈下は明治時代から徐々にはじまり、大正期から昭和期に入ると急速に進行していきました。地下水を汲み上げた目的は、工業用水と地下水に溶け込んだ水溶性ガスの採掘でした。江戸川区中葛西では 1年で23センチもの沈下を観測し、これにより178haの民有地が水没したことは前述しました。

台風・高潮による水害

そもそも江戸川区が水と闘わざるを得なかった理由は「低地」であることです。低地であることから、江戸川区はこれまでに台風や高潮による水害に頻繁に見まわれてきました。ここでは明治以降の大きな被害をもたらした台風・水害を表にしています。

>>>「地図でみる江戸川区の水との闘いの歴史(明治~昭和時代)」を見る

年月 風水害名(浸水原因)・改修工事 浸水戸数 被災者数
明治元年~明治43年 10回以上の床上浸水被害    
明治4年 暴風による高潮で葛西海岸堤防(当時の潮除堤)の大部分が破壊    
明治43年8月 長雨(利根川・荒川決壊) 3,654戸 13,500人
明治44年 荒川・中川放水路事業開始    
大正3年~昭和5年 江戸川の改修開始    
大正6年10月 台風(高潮) AP+4.21m
流出破損3,425棟 死者240人
大正8年 江戸川放水路(現在の江戸川)が完成    
昭和5年 荒川放水路(現在の荒川)完成
中川放水路(現在の中川)完成
   
昭和9年 葛西海岸堤防の改築開始(10か年計画)    
昭和13年9月 台風(高潮) 23,000戸 1,000人以上
昭和14年 葛西海岸堤防の改築中止(戦局激化による)    
昭和16年 新中川放水路開削工事開始    
昭和22年9月 カスリーン台風(利根川決壊) 30,506戸 132,991人
昭和24年8月 キティ台風(高潮) AP+3.15m
12,545戸 62,324人
昭和26年 葛西海岸堤防着工    
昭和32年 葛西海岸堤防完成(延長4,461m)    
昭和33年7月 台風第11号(内水氾濫) 6,599戸 28,312人
昭和33年9月 狩野川台風(内水氾濫) 41,683世帯 185,046人
昭和36年10月 台風第24号(内水氾濫) 23,844世帯 94,496人
昭和38年 新中川放水路(現在の新中川)完成    
昭和41年 河川の改称
かつての中川→旧中川
荒川放水路→荒川
中川放水路→中川
新中川放水路→新中川
   
昭和41年6月 台風第4号(内水氾濫) 4,064世帯 10,200人
昭和42年 葛西海岸堤防高潮対策工事完了(地盤沈下による劣化を改修)    
昭和46年8~9月 台風第23-25号(内水氾濫) 1,973世帯 約8,000人
昭和56年10月 台風第24号(内水氾濫) 10,289世帯 31,383人

この表中の水害記録については、江戸川区公式サイトを参考に作成しました。

荒川放水路の開削

荒川の出水は、江戸開府から明治年間に至るまで、荒川の出水は150回にのぼるという記録があります。明治40年(1907)の水害は、下谷・浅草・本所・深川の4区の約6万戸に被害を与えたことから、明治44年(1911)に荒川の改修工事が開始されました。このときに計画されたのが荒川放水路の開削です。現在の北区岩淵から、千住の北部を迂回し、綾瀬川・中川を分断し、東京湾に注ぐ長さ22kmの工事でした。洪水時には,岩淵水門を閉めて本流(隅田川)の増水をおさえて、洪水の大部分を放水路でいっきに海に流すというものでした。この計画は実行にうつされ、20年の歳月をかけて昭和6年(1931)に完成したのです。

>>>「荒川(荒川放水路)の歴史と風景 旧岩淵水門と荒川河口 」を見る

小松川・平井村・船堀村の一部が川または河川敷にあたったので、村の廃置分合が行われ、船堀村・平井村・小松川村が廃止され、船堀村の一部と小松川村の一部が松江村に、平井村の一部が奥戸村に編入され、残りの区域でもって小松川町が生まれた。
江戸時代から旅人に親しまれてきた、行徳街道と元佐倉道の交差点、「四股」も水の底に沈んだ。また、新たに総武線の鉄橋と小松川橋(木橋)が架けられ、平井駅も西へ約300mほど移動した。
(『江戸川区の歴史』(1971)より引用)

江戸川放水路の開削

明治43年(1910)の大洪水が関東一円に大きな被害をもたらしたことから、当時の政府が江戸川放水路の開削を決定しました。この大改修工事は、篠崎で分かれ、行徳村をつらぬいて海に流れる水路の開削であり、大正3年から昭和5年までの16年という歳月を要したのです。

>>>「江戸川の歴史と江戸川堤防の風景 旧江戸川と江戸川放水路」を見る

葛西海岸堤防

昭和22年(1947)のカスリーン台風により、利根川の堤防が栗橋上流で決壊して、その濁流は小岩、船堀に達しました。

>>>「地図でみる葛西海岸堤防の歴史」を見る

「人々は次々に市川めざして非難し、江戸川の土手には数千の群衆がひしめき、総武線の鉄橋も黒山の人だった。」
(『江戸川区の歴史』(1971)より引用)

また、昭和24年(1949)のキティ台風は、葛西海岸堤防が築かれるきっかけとなりました。満潮時と重なり、A.P.3.15m(※)の高波が発生したのです。
※A.P.(エーピー)は、Arakawa Peilの略。東京湾霊岸島量水標零位を基準とする基本水準面。荒川、中川、多摩川等の水位の基準。Peilはオランダ語。

翌々年の昭和24年、ふたたび水禍が、江戸川区を襲った。8月31日、キティ台風の上陸が満潮と重なり、大正6年以来の高潮に見舞われたのである。中川堤防・新川堤が溢れあるいは破壊し、葛西海岸堤も決壊という最悪の事態となった。一気に区内各所に出水し、濁流は家々を呑んで、さんたんたる有様となった。特に、平井・小松川地区は堤防が決壊したため出水は中川の水位と同じになっていっこうにへらず、さらに追い討ちの豪雨もあって水位はむしろ高まり、被害をいっそうひどくした。区内の罹災者62000余人・家屋全壊47戸・床上浸水9400戸・堤防の決壊は5000メートルをこえた。
(『江戸川区の歴史』(1971)より引用)

昭和24年(1949)の江戸川区の人口は191,775人であったので、約3分の1の住民が罹災者になった計算になります。

現在の江戸川区の地図と地盤沈下によって水没した民有地

下の地図の赤い部分が地盤沈下によって水没した民有地

画像 現在の江戸川区の地図と地盤沈下によって水没した民有地
現在の江戸川区の地図と地盤沈下によって水没した民有地

1909年(明治42)と2016年(平成28)の地図

1909年と2016年の地図を重ねると、荒川放水路、中川放水路、新中川放水路の建設によって、中川が分断され、江戸川区内の膨大な土地が水没したことがわかります。他方、現在では江戸川区の葛西以南に広大な埋め立てが完成しています。また、明治42年には江戸川放水路がまだ存在していないことも確認できます。

>>>「地図でみる江戸川区の水との闘いの歴史(明治~昭和・100年の歴史)」を見る

画像 1909年と2016年の地図を重ねた図
1909年と2016年の地図を重ねた図

現在の江戸川区の地図

平成28年の江戸川区

(クリックで拡大)

現在の江戸川区は、旧中川と旧江戸川とともに、荒川、中川、新中川といった、多くの河川に囲まれた地域となっています。平井地区を流れる、昔の中川の下流域は現在、「旧中川」と呼ばれ、江戸川区の右側を流れる江戸川は「旧江戸川」と呼ばれています。

関連情報

荒川放水路に詳細については、荒川河川事務所「荒川の概要と歴史」を参照されたい。

上記の明治42年の二つの地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。

江戸川区の位置

江戸川区は、東京都の最東端に位置し、江戸川を境に千葉県に接し、北・西方位は葛飾区・墨田区・江東区に隣接します。南端に東京湾。
地形は平坦で、南北に約13キロメートル、東西に約8キロメートル。面積は49.09平方キロメートル。

関連ページ

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江戸川区公式サイト