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旧中川の歴史と風景 荒川放水路によって分断された川

旧中川の歴史と風景 荒川放水路によって分断された川

旧中川は、江戸川区平井七丁目地先で荒川と分かれ、江戸川区と墨田区・江東区の境界を蛇行しながら南に流れ、江戸川区小松川一丁目で再び荒川と合流する川です。

8代将軍 徳川吉宗がつくった中川 九十九曲りの川

江戸時代以前の中川(現在の旧中川)は、古利根川を上流として、途中で元荒川と合流し、水元・新宿(にいじゅく)・奥戸・平井を通り、綾瀬川・堅川・小名木川と通じながら、江戸川にそそいでいました。江戸時代に入り、8代将軍徳川吉宗が水害から村を守るために、1725(享保10)から14年間をかけて、散在していた池や沼を利用して、ひとつの流れをつくりました。そのため、「九十九曲り」をよばれる屈曲の激しい川となったのです。この川が中川と呼ばれたのは、隅田川と江戸川の間を流れるからといわれています。

中川(現在の旧中川)の上流、いわゆる古利根川の流域には埼玉県の農業地帯がひらけ、また中川の沿岸には、足立・葛飾・江戸川区が発展してきました。しかし、ひとたび大雨に降られると洪水が発生し、沿岸地帯は大きな被害をうけてきたのです。

明治時代の中川改修

明治44年(1911)に開削決定後、大正5年(1916)から中川改修工事が行われ、昭和5年(1930)に荒川放水路(現荒川)および翌年(昭和6年)に中川放水路(現中川)が完成しました。

下の明治42年の地図にあるように、旧中川は本来、中川の本流でしたが、この改修工事により、中川が二つに分断されて現在のような形になりました。そして、昭和41年(1966)に分断された中川の下流部分を「旧中川」と改称したのです。

画像 旧中川
旧中川

>>>「旧中川の河津桜の風景」を見る
>>> 「中川の歴史と風景」を見る
>>> 「新中川の歴史と風景・新中川の橋と旧江戸川との合流地点」を見る

明治42年(1909年)と平成28年(2016年)の地図を重ねた地図

  下の地図では、九十九曲りといわれる蛇行する中川の様子を確認できます。地図左上から中央を流れる大きな荒川(荒川放水路)が旧中川を分断しています。

画像 「九十九曲り」といわれる蛇行する中川と荒川(荒川放水路)の様子
九十九曲り」といわれる蛇行する中川と荒川(荒川放水路)の様子

この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷謙二)により作成。

旧中川「かさ上げ護岸」の歴史

旧中川が流れるこの地域は、乱流する荒川(現隅田川)や中川、利根川(現江戸川)の河口部に堆積した三角州を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰なくみ上げにより地盤沈下が進行し、現在の荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。地盤沈下を防止・軽減するため、地下水揚水規制や水溶性天然ガスの採取停止などを実施した結果、昭和四十八年頃から沈下は急速に減少し、現在ほぼ停止しております。
急速に地盤沈下が続いた町を水害から守るため、旧中川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくなれました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。
東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。
ここに残された旧中川のかさ上げ護岸は、緩傾斜堤防の整備が完了したことを記念し、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地帯に住む都民の皆様に水害に対する防災意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。
平成二十三年三月
東京都江東治水事務所

旧中川にある案内板と写真

画像 旧中川のかさ上げ護岸(旧堤防)
旧中川のかさ上げ護岸(旧堤防)
画像 「かさ上げ」の歴史がわかる旧中川の堤防
「かさ上げ」の歴史がわかる旧中川の堤防
画像 旧中川のかさ上げ護岸(旧堤防) の裏側
旧中川のかさ上げ護岸(旧堤防) の裏側
画像 1974年の旧中川の様子
1974年の旧中川の様子
画像 1974年の旧中川の様子 平井橋付近
1974年の旧中川の様子 平井橋付近

旧中川を上流から下流に向かって撮影

下の写真は、旧中川を上流から下流に向かって順番に撮影した写真です。両側(江戸川区側・墨田区側)は整備されています。

画像 江戸川区内の旧中川上流
江戸川区内の旧中川上流 写真中央はゆりのき橋
画像 江戸川区内の旧中川上流
江戸川区内の旧中川上流 写真中央は中平井橋

中平井橋

中平井橋付近は、江戸川区の極西である。

画像 江戸川区と墨田区を結ぶ中平井橋
江戸川区と墨田区を結ぶ中平井橋

画像 中平井の渡し

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中平井の渡しの案内板には以下の説明があります。

江戸時代、江戸川や中川には、橋をかけることが許されず、もぱら渡しによって交通が支えられていました。
中川筋では、「平井の渡し」、「逆井の渡し」、「番所の渡し」がありましたが、明治以降主要な道筋には橋が架けられ、永い歴史をもった渡しも廃止されていきました。しかし、橋の数は現在とくらべれば、各段に少ないので、脇道には昔のまま渡しが残され、新たに設けられる渡しもありました。
「中平井の渡し」もそのうちのひとつで、大正5年に設置され、平井村と吾嬬村の間を結んでいました。中平井橋ができる昭和13年まで、深野七五郎氏により運行されていました。

画像 中平井橋の南側から撮影した旧中川
中平井橋の南側から撮影した旧中川
画像 中平井橋の南側の旧中川
中平井橋の南側の旧中川
中平井橋の南側の旧中川

旧中川のススキ

画像 旧中川のススキ
旧中川のススキ
画像 旧中川の風景
 旧中川の風景
画像 旧中川の上流方面を撮影
旧中川の上流方面を撮影

平井橋

平井の渡しは千葉県行徳から浅草までの街道の途中にあった渡し(行徳道の渡し)でした。
行徳道は、千葉県行徳~今井の渡し~東一之江村・西一之江村・東小松川村~四股で元佐倉道と交差して中川(旧中川)平井の渡しへつながっていました。

この渡しは、明治32年(1899年)に平井橋が架けられるまで使用されていましま。平井橋は明治32年(1899)に木橋が架けられ、昭和55年(1980)に鉄橋になりました。

平井の渡しの案内板

画像 平井の渡しの案内板
平井の渡しの案内板

平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』下平井村の項には、「当村(下平井村)の預る所なれば平井渡とよべり」とあります。渡しは江戸時代の初めに設けられ、船一艘で往来の便に供していたと書かれています。
『江戸名所図会』の「平井聖天宮」の絵には、中川に「平井渡」が描かれ、江戸川区側の正面には鳥居が建てられています。
行徳道は、江戸と下総の行徳を結ぶ道で、平井の渡しから江戸川区を東南に下り、今井の渡しで江戸川をわたって行徳へ渡りました。渡しはこの説明版からまっすぐ土手にあがった川岸で、説明板脇の細い坂道が当時の行徳道でした。
明治三十二年(1899)、渡しのやや東に木橋の平井橋が架けられて、渡しは廃止されました。平井橋は、対象14年(1925)に鉄橋に架けかえられ、昭和五十五年(1980)に現在の橋になりました。
その後、平成二十年(2008)の旧中川の景観整備によって、護岸が現在のように整備されております。
江戸川区

現在の平井橋

画像 現在の平井橋の様子
現在の平井橋の様子
画像 現在の平井橋
現在の平井橋

平井橋より下流の風景

画像 平井橋より下流の風景
平井橋より下流の風景
画像 平井橋より下流の風景
平井橋より下流の風景

江東新橋周辺の風景

画像 江東新橋吹きの旧中川
江東新橋吹きの旧中川
画像 江東新橋吹きの旧中川
江東新橋吹きの旧中川

北十間川と旧中川との合流地点

旧中川は奥から右方面に流れ。

画像 北十間川と旧中川との合流地点
北十間川と旧中川との合流地点

北十間川

画像 北十間川
北十間川

東武鉄道の鉄橋

画像 東武鉄道の鉄橋
東武鉄道の鉄橋
画像 江東新橋の南側の風景
江東新橋の南側の風景

ふれあい橋

ふれあい橋は、旧中川に架かる江戸川区と江東区を結ぶ橋。人と自転車のみ通行可能。江戸川区の平井・小松 川地区と江東区の亀戸地区を結び、両区民が相互に行き来してふれあい憩うことのできる橋となることを願って「ふれあい橋」と命名されたそうです。
毎年8月15日の夜、ふれあい橋付近では「旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し」が行われています。

>>>旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流しについて詳しく見る

画像 ふれあい橋
ふれあい橋
画像 ふれあい橋
ふれあい橋

逆井橋・逆井の渡し

その昔、旧中川(中川)には橋がなく、往来は平井の渡し逆井の渡しに頼っていました。
区内最初の橋は、明治12年(1879)に架けられた逆井橋で、小松川村と亀戸村を結びました。村費による架橋の費用を補うために橋銭を徴収した賃取橋でも知られています。

明治27年(1894)に橋銭徴収は終り、明治31年(1898)東京府によって架けかえられました。昭和43年(1968)、江戸川、江東両区の負担で鉄橋になりました。白い橋は首都高速7号線。

画像 逆井橋
逆井橋
画像 逆井橋
逆井橋

江戸川区郷土資料室に鉄橋になる直前の逆井橋の一部が残されています。

  • 明治12年(1879) 村費による
  • 明治31年(1898) 東京府が架橋
  • 昭和43年(1968) 江戸川区と江東区が架橋

>>>江戸川区郷土資料室について詳しく見る

画像 逆井橋

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逆井の渡しの案内板

画像 旧中川にかかる逆井橋付近 逆井の渡しの案内板 

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逆井の渡しの案内板には以下の説明がある。

逆井(さかさい)の渡し跡
中川をわたる逆井の渡しは、「新編武蔵風土記稿」に「元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しをよべり」とあるように。もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総をむすぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。
逆井の渡し付近は風景も良く、安藤広重「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋(ちんとりばし)でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。

江戸川区

もみじ大橋

旧中川の風景(もみじ大橋)

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さくら大橋

旧中川の風景(さくら大橋)

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旧中川の風景

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都営新宿線東大島駅

東大島駅は、旧中川の上に位置し、江戸川区側と江東区側に改札があります。

都営新宿線東大島駅

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旧中川と小名木川との合流地点

正面に見えるのは、都立大島・小松川公園。
旧中川と小名木川の合流地点(左から右に流れる川が旧中川、手前に流れてくる川は小名木川)。

参考情報

大島・小松川公園と旧小松川閘門

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下の写真は、上の写真の右上に写っている階段部分。旧小松川閘門がみえる。大島・小松川公園には旧小松川閘門があるが、約三分の二が土に埋まった状態です。

>>>荒川の歴史について詳しく見る

画像 小名木川からみた小松川閘門

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大島・小松川公園からみた旧中川と小名木川との合流地点

>>>「小名木川の歴史と風景」を見る

関連情報

平成橋

画像 平成橋(旧中川の風景)

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荒川ロックゲート

旧中川と荒川との合流地点は荒川ロックゲート。

>>>荒川ロックゲートについて詳しく見る

旧中川の河津桜の写真

JR総武線の旧中川にかかる鉄橋付近。

>>>「旧中川の河津桜の風景」を見る

2018年2月の写真

画像 2018年2月の河津桜(旧中川)

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画像 2018年2月の河津桜2(旧中川)

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画像 2018年2月の河津桜3(旧中川)

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2017年2月の写真

画像 旧中川の河津桜1

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画像 旧中川の河津桜2

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画像 旧中川の河津桜3

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2013年以前の写真

▼旧中川

奥に見えるのはふれあい橋。
画像 旧中川 ふれあい橋周辺

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▼旧中川沿いの桜

画像 旧中川の桜

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画像 旧中川の桜

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画像 旧中川の桜

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画像 旧中川の桜と東京スカイツリー

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風景 旧中川の風景

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参考資料

『えどがわ発見!解説シート』江戸川区郷土資料室

-江戸川区の川・海, 江戸川区の歴史・名所