江戸川の歴史と江戸川堤防の風景 旧江戸川と江戸川放水路
江戸川は昔、太日河(ふといがわ)とよばれ、 渡良瀬川の水が流れていた。
渡良瀬川の歴史については、国土交通省「渡良瀬川河川事務所」ホームページが詳しい。
江戸幕府は、江戸時代の初期に利根川水系の改修を行い、寛永年間(1624~1644)には、洪水の防止と新田開発のための用水確保とともに、安定した水上輸送路を確保するために、関宿(せきやど)から金杉(現在の野田市)のあいだに新たな流路を開削し、金杉で太日河につなげた。それ以来、利根川からの水が流れ、現在の江戸川の原型ができあがった。その後、江戸へつながる川として「江戸川」とよばれるようになった 。江戸川から江戸へは、江戸川(現在の旧江戸川)→新川(塩の道)→小名木川→隅田川というルートである。当時は、北関東や東北から江戸へ物資を運ぶ重要な運河となっていたのである。新川の歴史についてはこちらを参照されたい。
天明3年(1783)に浅間山が噴火し、その噴出物が利根川水系の河床を上昇させたため洪水を招くようになった。この噴火により関東一体に火山灰が降り、山麓では山津波がおこり多くの人家が押し流された。多数の犠牲者の遺体が利根川や江戸川を流れ下ったそうである。地元の下小岩村の人々は、遺体を収容し、手あつく寺内の無縁墓地に埋葬した。現在、区内の善養寺には、この供養碑が残っている(江戸川区教育委員会『天明三年浅間山噴火横死者供養碑』善養寺)。
明治時代になっても、河床上昇による洪水の被害は頻繁に発生した。明治43年(1910)、利根川水系に大きな洪水を機に、江戸川への水の流量増大を目的とする江戸川改修工事が大正3年(1914)に着工された。また、大正 5年(1916)に着工した 行徳村をつらぬく新たな開削は大正 9年(1920)に竣工した。これを「江戸川放水路」とよび、篠崎から下流の旧流路を「旧江戸川」とよぶようになったのである。
>>> 旧江戸川の歴史と風景はこちら
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成した。
小岩市川関所
江戸への出入りをとりしまった関所があった。関所の施設は小岩側にあり、4人の役人が交代で詰めていた。京成線鉄橋下流側河川敷にあったと推定されている。
下の写真は京成線鉄橋。
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江戸川河川敷
総武線鉄橋から下流。この河川敷には、野球場、ソフトボール場、サッカー場、ラグビー場などが整備されている。
また、堤防上は、江戸川区が「健康の道」として、ウオーキングやサイクリングのために整備がされている。
江戸川水門・閘門 旧江戸川と江戸川放水路(現江戸川)との分岐
閘門とは、水位の異なる河川や水路の間を、船を上下させて通らせるための装置のこと。
下の写真は、江戸川と旧江戸川の分岐点にある江戸川水門・閘門。
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江戸川と旧江戸川の分岐点(江戸川放水路のはじまり地点)
写真中央のあたりの左への流れが「旧江戸川」、右への流れが「江戸川放水路」。
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旧江戸川の流れ
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江戸川放水路(現江戸川)の流れ
下の写真は行徳橋の架け替え工事(2017年秋)
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関東一のハゼ釣りポイント
江戸川(江戸川放水路)は、関東一のハゼ釣りポイントとも呼ばれる。川岸からの釣り人も多い、ボートを利用している人の少なくない。このあたりではボート、釣り竿、エサほかすべてレンタルできるので、手ぶらで来る人も少なくないらしい。レンタル合計で5000円程度(半日)ということだ。
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下の写真の左の鉄橋は、東京メトロ東西線。
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下の写真は首都高速湾岸線。ここから先は東京湾へ。
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