江戸川区の歴史・名所

元佐倉道【江戸川区の歴史街道】両国橋~逆井の渡し~小岩市川の渡し・小岩関所

江戸時代の「街道」と言えば、最初に五街道が思いつきます。五街道は、江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道という幕府直轄の主要街道です。江戸川区内に五街道は通っていませんでしたが、江戸幕府にとって重要な歴史街道がありました。

元佐倉道(堅川通り)~両国橋から逆井の渡し~小岩市川の渡し

元佐倉道は隅田川にかかる両国橋付近から堅川の北側に沿って東へ進む直線の道です(江戸城から見て縦(東西)に流れるので「竪川」の名称になりました)。旧中川の「逆井の渡し」(小松川2丁目)を渡り、ここから江戸川の「小岩市川の渡し」(北小岩3丁目)までもほぼ一直線の道でした。両国橋から小岩市川の関所まで、最短距離の道だったといえます。船橋以東の東金街道が整備された慶長末年(1615)頃から、両国橋が架けられた万治2年(1659)頃までに順次整備されたといわれています。小岩の関所から両国橋まで最短距離ではありましたが、参勤交代には利用されなかった街道です。1700年代初頭の成田参詣が人気となり、江戸の住民は成田参詣に向かう道として利用されていました。

1875年に元佐倉道は千葉街道と改称されました。その後も区内の主要な道として機能し、その大半が現在の千葉街道になっています。堅川は現在の墨田区、江東区を流れ、旧中川と隅田川を東西につないでいます。全区間首都高速7号小松川線の高架で覆われ、東半分は暗渠化されています。

元佐倉道と千葉街道【江戸川区郷土資料室企画展2014】

下の図は2014年に行われた江戸川区郷土資料室企画展のパンフレットに掲載された地図です。両国橋から東金までの街道が描かれています。

画像 元佐倉道と千葉街道 江戸川区郷土資料室企画展2014
元佐倉道と千葉街道

明治42年(1909)測図

この地図は、明治42年の測図に歴史街道をマッピングしたものです。現在の荒川(荒川放水路)は明治44年(1911)に事業がはじまり昭和5(1930)に完成したので、この明治42年には存在しません。

画像 元佐倉道 水戸佐倉道 佐倉道

房総の諸大名の参勤交代の道~佐倉道と水戸佐倉道~

佐倉道は少なくとも戦国時代に整備された道でした(鎌倉時代の整備という説もあります)。佐倉藩をはじめとして、房総の諸大名の参勤交代では、小岩市川渡し・小岩市川関所→<佐倉道>→新宿(にいじゅく・現在の葛飾区)→<水戸佐倉道>→千住→<日光街道・奥州街道>→江戸・日本橋へのルートが取られていました。幕府はこの道を五街道に匹敵する重要なものとして重視しました。佐倉道と元佐倉道は、江戸中期以降、成田山への参詣のため、江戸の庶民の往来でにぎわいました。このルートは、小岩市川渡し・小岩市川関所から両国橋に至る元佐倉道を通るよりかなり遠回りです。

小岩・市川関所と渡し

佐倉道が江戸川を渡る場所に「小岩・市川の渡し」がありました。佐倉道が戦国時代に整備された道であるので、この渡しもかなり古くから存在していたと考えられます。1616年(元和2)に幕府はこの場所を定船場と定めました。定船場には番所が置かれ、往来する人や物資を監視しました。幕府は佐倉道と元佐倉道は五街道に匹敵する街道として重要視して早くから小岩市川の渡しには関所をおいたのです。小岩御番所町とは小岩市川関所前のまちのことです。佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。

江戸幕府は軍事上の配慮から川の架橋、川の渡し場所も制限していましたので、このような「渡し」を中心に交通網が発達していきました。江戸時代の交通網は現在の道路整備にも影響を与えています。

画像 元佐倉道案内板
江戸川区が設置した元佐倉道の案内板

元佐倉道(旧千葉街道)
江戸時代のはじめ、両国から堅川の北岸を東にすすみ、逆井の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へむかう道がひらかれました。逆井の渡しから小岩にいたる道筋は、船橋以東の東金街道の整備が慶長末年あたりとすれば、その前後あるいは両国橋が架けられた万治2年(1659)あたりまでのほぼ50年間に順次整備されたと考えられます。『水戸佐倉道分間延絵図(みとさくらどうぶんけんのべえず)』には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしのふどきこう)』には、「元佐倉道とて本所堅川通り亀戸逆井渡を渉り、小松川村小名四ツ又と云う処より両路に別れ、左して下総国市川村に達す」とあります。一般には「元佐倉道」とよばれ、明治8年(1875)に千葉街道と改称されました。八蔵橋以東は、明治初年に道幅をひろげています。荒川放水路・中川放水路(荒川・中川)の開さくによって、行徳道と交差する四ツ又(四股)とよばれたところが失われましたが、ここにあった道標(移設現存)には「両国・市川道」と刻まれています。大正9年(1920)に国道七号となり、大正11年には小松川橋が架けられ、八蔵橋以西は経路が変わりました。昭和27年(1952)に国道14号に改められ、八蔵橋以西は旧千葉街道とよばれています。
江戸川区

五街道

  • 東海道・・・1624年(寛永元年)完成。日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの五十三次。
  • 日光街道・・・1636年(寛永13年)頃完成。日本橋から千住、宇都宮、今市を経て、日光までの二十一次。
  • 奥州街道・・・1646年(正保3年)完成。日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの二十七次。
  • 中山道・・・1694年(元禄7年)完成。日本橋から高崎、下諏訪、木曽路の妻籠を経て、草津までの六十七次。
  • 甲州街道・・・1772年(明和9年)完成。日本橋から内藤新宿、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する四十三次

両国橋

両国橋は、明暦の大火(明暦3年・1657年)の後、江戸の市街地拡張(本所・深川地区の開発)にともなって架けられました(万治2年・1659年暮または万治3年完成)。その後、元禄6年(1693)には、両国橋の下流に新大橋、元禄11年(1698)にはさらに下流に永代橋が完成しました。この3つの橋は、幕府の費用で作られ、その後も幕府の費用で維持管理が行われていた。その後、橋の維持管理に要する幕府の財政負担が大きくなり橋の民営化が行われた。

小名木川

小名木川の歴史 >>>小名木川の歴史と風景 小名木川と旧中川・墨田川との合流地点を見る

元佐倉道(堅川通り)は、堅川の北岸沿いに造られていました。

現在の堅川と旧中川の合流地点・逆井の渡し

画像 堅川(暗渠)と旧中川の合流地点
堅川(暗渠)と旧中川の合流地点
画像 逆井の渡し跡 旧中川
逆井の渡し跡

小岩一里塚

一里塚とは、江戸時代の街道付属施設のひとつです。江戸・日本橋を起点に1里(約4キロメートル)ごとに、道の両側に築造されました。街道を行き交う人々の道しるべでした。榎(えのき)を植えることが定型になっていたそうです。

小岩市川の渡し・関所

画像 小岩市川の渡し跡 案内板
小岩市川の渡し跡
画像 小岩市川の渡し跡

成田山新勝寺

江戸庶民の往来の代表は成田山の参詣でした。成田山新勝寺は、平将門の乱(10世紀中頃)に際して、将門を制するために不動明王を本尊とする護摩修法を執行したのがはじまりです。元禄16年(1703)からたびたび江戸で出開帳を行って、庶民の人気と信仰を集めました。出開帳とは、寺院の本尊を他所に出して行なう開帳のことです。

年表

  • 1596-1615 (慶長):小名木川の開削       行徳の塩を江戸城に運ぶために開削
  • 1614 (慶長19):土井勝利 (佐倉) により将軍鷹狩の道として東金御成街道が造成。「房総の地から外様大名を駆逐し、交通網の整備を行い、房総半島を要害化」(山本光正,1993)とも言われます。
    参考文献 山本光正(1993)「五街道の付属街道に関する一考察-特に水戸佐倉道を中心として-」『国立歴史民俗博物館研究報告』1993.02((通号50)),pp.201~217.
  • 1926(寛永3):鷹場制度の整備/「巣鷹制」
    1628(寛永5):江戸川区も「葛西筋」として鷹場として指定された。鷹場は江戸近郊の直轄地に定められた。
  • 1629 (寛永6):船堀川(新川)の開削
  • 1635 (寛永12):参勤交代制/家光による武家諸法度の改定
  • 1657(明暦3):明暦の大火(1657 年 3月2日~4日)
  • 1659 (万治2) or1661(万治4):両国橋の架橋 (二説あり)
  • 1660 (万治3):堅川の開削/元佐倉道の整備 両国橋~元佐倉道~東金に至る道の完成
  • 1680年代:綱吉「鷹狩」廃止 生類憐みの令
  • 1687(貞享4):松尾芭蕉『鹿島紀行(鹿島詣)』
  • 1688(元禄1)9月改元:松尾芭蕉/成田山新勝寺(芭蕉の句碑)
  • 1698(元禄11):永代橋の架橋
  • 1703(元禄16):江戸での出開帳/以降成田山への参詣が人気となる。
  • 1716(正聖6):吉宗「鷹狩」復活/葛西 岩淵、戸田、中野、品川 (のちの目黒筋) 六郷 (のちの品川筋)の6筋

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