江戸川区郷土資料室に歴史資料を見に行ってきました
江戸川区郷土資料室は、先祖から大切に受け継いできた江戸川区の文化遺産の散逸を防ぐため史資料を収集・保管・展示することを目的に、昭和40年(1965)12月1日、江戸川区民センター(現在のグリーンパレス)内に設置されました。平成12(2000)年、リニューアルオープンしています。
郷土資料室では江戸川区域の古代から現在までの歴史の概略を知ることができます。江戸川区役所から歩いてすぐのグリーンパレス内にあります。
グリーンパレス3階の郷土資料室入口。
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常設展
「昭和のくらし」の展示
ここでは、主に昭和30年代の一般家庭の様子を再現しています。
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江戸川区のあゆみ
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古代の江戸川区域は大嶋郷
江戸川区域は、弥生時代に陸地化したようだ。口縁がS字状の断面をもつ「台付甕(だいつきかめ)」(愛知県尾張地方で製作された独特の土器)が上小岩遺跡で出土しています。上小岩遺跡は、奈良に都があった8世紀はじめの「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」における「甲和里(こうわり)」という村があった場所だったという説が有力です。
※大嶋郷は、甲和里、仲村里、嶋俣里の3つの里からなり、約1200人が暮らしていたようです。
中世の江戸川区域は葛西御厨(かさいみくりや)
平安時代には、田畑が開かれ、村ができて、武士が登場しました。現在の江戸川区を含む地域は、12世紀中頃に葛西氏から伊勢神宮に寄進された荘園です(葛西御厨)。
※伊勢神宮では各地の神宮神領を御厨(みくりや) と呼んでいました。
戦国時代
戦国時代、この地域では上杉氏、北条氏、里見氏、太田氏といった武将が対抗していました。国府台合戦では江戸川区域も戦場になりました。
※国府台合戦(こうのだいかっせん)
戦国時代に下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯において北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦。
第一次:天文7年(1538)、関東進出を目指した北条氏綱・氏康父子は、下総の小弓義明、安房の里見義尭と戦い、勝利をおさめた。
第二次:永禄7年(1564)、北条氏康が、国府台で里見義尭に勝利する。関東が北条氏の勢力下にはいった。
江戸時代
江戸川区域は幕府の直轄領(天領)であり、36の村がありました。代官が支配し、御鷹場として、鷹場役人の支配も受けていました。
下は、郷土資料室に展示されている江戸時代の江戸川区域の村。
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※御鷹場
徳川家康の時代に江戸周辺が将軍のための鷹場とされた。5代綱吉のときに一時中断したが、8代吉宗のときに復活し、6つの地区に再編成され幕末まで続いた。
※鷹狩りは、将軍や許可を得た大名しか許されなかった。
下図は、郷土資料室に展示してある6つの御鷹場の地図
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加納甚内
獲物となる鳥を保護し、将軍鷹狩りに役立てる者を綱差といい、甚内は将軍吉宗により紀州から呼び出され、小松川の地に住んだ綱差です。加納甚内の墓が現在の江戸川区の仲台院に現存しています。
小岩市川関所
小岩の地には、江戸への出入りを取り締まった関所がありました。関所の施設は小岩側にあり、4人の役人が交代で詰めていたそうです。京成線鉄橋下流側河川敷にあったと推定されています。
下の写真は京成線鉄橋。
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江戸時代の街道と渡し
元佐倉道は、江戸時代はじめに整備され、江戸両国から堅川の北岸沿いに東へ向かい、中川(現在の旧中川)を逆井に渡しで渡って、八蔵橋、菅原橋、二枚橋、一里塚と、現在の江戸川区を直線で北東へ進み、小岩市川関所の手前で佐倉道に合流しました。
下図は郷土資料室に展示されているマップ。
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※江戸時代には、大きな川には橋がなく、渡し舟に頼っていました。
海苔の養殖
江戸川区”葛西”での海苔づくりは江戸時代の終わり頃に始まりました。明治中頃に発展して昭和37年まで続けられました。海苔づくりが終わる前年の昭和36年に「東京港改訂港湾計画」がスタートし、東京湾の埋め立てがはじまったのです。
下の写真は、海苔養殖作業で使うひとり乗りの小型の船、いわゆる「べか舟」である。
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明治時代
江戸川区域の最初の橋は、明治12年に中川(現在の旧中川)に架けられた逆井橋です。明治32年同じ中川に平井橋が、37年小岩の江戸川に江戸川橋(現在の市川橋)が架けられ、45年に江戸川に下江戸川橋(現在の今井橋)が架けられました。
※逆井橋
逆井橋は、中川・江戸川にかかる橋のうち最も古い。明治12年(1879)に架けられた。亀戸・小松川両村による架橋で、その費用を補うために橋銭が徴収された。明治27年に徴収は終了し、明治31年に東京府によって架け替えられた。昭和43年、江戸川・江東の両区の負担で、鉄橋になった。
写真は鉄橋になる直前のもの
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