江戸川区には関所があった 小岩市川関所
江戸時代、江戸と房総をを結ぶ佐倉道は重要な街道であった。この佐倉道が江戸川を渡る場が「小岩市川の渡し」である。1616年(元和2)には、この場が定船場になり、番所(のちの関所)になり、往来する人と物資を監視した。
関所は、京成電車の鉄橋から約50m下流の現在の河川敷の中にあったらしい。現在の江戸川ソフトボール場付近。関所は、1869年(明治2年)に明治政府によって廃止された。
以下は、『江戸川区の史跡と名所」(2000,江戸川区教育委員会)より引用
関所付近の街道筋は御番所町(ごばんしょまち)とよばれ、旅籠屋や掛茶屋が立ち並び、大名の参勤交代や成田詣での人々でにぎわいました。
関所を通るには、名主の発行した手形または切手と呼ばれる通行証明書が必要で、特に鉄砲の持ち込みと女性の地方への旅は厳重に取り締まられました。そのため、千葉県側から嫁に来た場合は、里帰りや祝儀・葬儀、実家に帰る場合にも手形を必要とし、奉公人としてやとわれてきたときには年季が明けるまで帰ることはできませんでした。
関所の歴史的意義
小高昭一「元和二年八月定船場之事」の基礎的研究
「関所」とは、通行人や物資などの移動を留めたり、検閲を行う施設です。日本の古代から中世、そして近世の各時代に存在した関所の歴史的意義はそれぞれの時代によって異なるようです。
この研究では中世から近世を通じた関所について以下のような記述があります。
中世では幕府・朝廷・大寺社などが関銭を徴収する目的で関所を設けた。数多い関所の存在は、交通・流通の障害であり、戦国大名の中にはこれを廃止する動きがあった。織田・豊臣政権は、関所撤廃を政策的に全国に広げ、中世的関所の大半が廃止された。
ところが、徳川幕府は反対に全国支配、江戸防衛の目的から、関所を順次設置したと云われてきた。結果全国に五〇カ所以上の関所が設置されている。幕府の設けた関所では、いわゆる「出女・入鉄」炮をきびしく検閲し、犯罪者や不審者などを取り締まり、基本的には近世を通じて関所は存続した。
利根川・江戸川筋の関所配置
関東十六渡津(カントウジュウロクトシン)
江戸幕府が軍事交通上の場所にある一六ヵ所の渡場を定船場に指定したこと。
小岩市川関所は、利根川・江戸川筋にあっては最も下流の関所で、江戸に近い場所にあった。以下の地図はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)から引用。
関所跡の風景
京成電車の鉄橋の下流側の風景
江戸川の土手から撮影
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案内板の地図
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土手下から撮影
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京成電車の鉄橋の上流側の風景
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奥に見えるのは小岩菖蒲園
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