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江戸川区の水を支える金町浄水場の歴史 江戸~明治の上水

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江戸川区の水を支える金町浄水場の歴史 江戸~明治の上水

江戸川区の水道水は江戸川を水源として金町浄水場で作られています。「浄水場」とは河川などから取水した水(原水)を飲むことができる水道水にするため浄水処理を行っている施設です。この金町浄水場は、東京都内の「東京水道名所」のひとつで。とくに、トンガリ帽子の屋根でおなじみの”金町浄水場の取水塔”が有名です。

>>>東京の水道水源と浄水場別給水区域 (東京都水道局ホームページ)

江戸川の土手からみた金町浄水場の取水塔(下流方面から撮影)。奥が第二取水塔(トンガリ帽子)、手前が第三取水塔(ドーム屋根)。

画像 金町浄水場

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江戸時代における上水の変遷

上水とは、飲むことができる水を供給する水道および設備全般を指す。水は家庭や工場などの蛇口に届けられるまでに、さまざまな殺菌処理が行われる。一般的に、大腸菌は一切検出されないこと、人体に有害な物質(カドミウムや水銀など)は影響を与えない許容値以下であることなどがチェックされる。水源(原水)は、地表水(川や湖、ダム湖水)、伏流水(浅い地中を流れる水)、地下水(浅井戸水や深井戸水)である。

徳川家康が1590(天正18)年に入ったときの江戸は、海岸線は江戸城大手門近くまで迫り、現在の日比谷公園・皇居外苑のあたりは日比谷入江と呼ばれる浅海でした。家康はただちに堀を開削、山を切削してその土で日比谷入などを埋め立て、河川の改修を行いました。また、家康は生活用水の確保のため、家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じたのです(「小石川上水」)。この小石川上水が江戸における最初の水道となり、その後の江戸のまちとともに神田上水へと発展していきました。

徳川家康は江戸に幕府を開いた1603年(慶長8)頃、小石川上水が拡充・整備され新市街地へ給水されたと考えられています。同時に、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の西南部に給水されていました。しかし、その後の江戸の人口は増加の一途をたどり、二つの上水では増大する水需要に応じることができなくなったのです。

1652(承応元)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立て、工事請負人を庄右衛門、清右衛兄弟、総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治を命じた。1653(承応2)年4月4日着工、11月15日には羽村取水口から四谷大木戸までを8か月で掘り上げられた。1654(承応3)年6月には虎ノ門まで地下に石樋・木樋による配水管を付設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水された。

1657(明暦3)年、明暦の大火により江戸の町は大半を焼失(江戸城天守閣消失)。この災害を契機として幕府の大幅な復興再開発により、江戸はさらに周辺部へ拡大発展。拡大した江戸周辺地域に給水するため、1658~1672(万治・寛文年間)年に亀有(本所)上水青山上水三田上水が開設。1696(元禄9)年には千川上水が開設された。亀有上水は中川を水源とし、他の三つの上水はいずれも玉川上水を分水して水源とした。亀有上水は本所・深川方面に、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水された。このように、元禄から享保にかけて六つの上水が江戸の町を潤していたのである。

>>>「中川(中川放水路)の歴史と風景」を見る
>>>「旧中川の歴史と風景 荒川放水路によって分断された川」を見る

明治時代における上水の変遷

明治維新を経て、東京は近代国家の都市としてのまちづくりが始まった。文明開化によって、鉄道、煉瓦街、ガス灯に象徴されるようなまちづくりが進んだ。しかし、水道は江戸時代の神田・玉川上水のままであった。当時は、浄水処理がなされていない河川の水がそのまま石樋(せきひ)や木樋(もくひ)によって東京の上水井戸に配水されていたのである。

水道の近代化は、明治維新後の行政の混乱、水道を所管する組織の変転などによって遅れていたのである。適正な補修が行われなかったことから、木樋は腐朽し、東京の水質は悪化していった。また、当時の上水は自然流下であったため圧力がなく、火災の消火にもそれほど威力を発揮することはできなかったのである。

このような状況のなか、1874(明治7)年に政府が上水の改良の検討を始めた。また、その翌年には東京府も東京府水道改正委員を設置して、上水改良の検討を始めたのである。このとき検討されたものは、原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというものだった。しかし、この案は巨額の費用と道路整備などの都市計画全体との調整を図ることが不可欠であったため、さらなる検討が必要だったのである。東京府は、近代水道創設の検討を進める一方で、既存の木樋や上水路の補修を行うとともに、水源汚染の取り締まりを強化した。しかし、1886(明治19)年に、コレラが東京を襲い多数の死者を出すことになり、近代水道創設促進に拍車がかかたのである。

金町浄水場の歴史

江戸川上水町村組合の施設として始まった金町浄水場。その後東京市(都)に引き継がれ、東京の水需要の増加に対応するため、拡張工事が行われ、浄水能力の向上してきた。現在、高い品質の水をつくるために最新の設備が導入されている。

  • 1926年(大正15)8月
    当時の南葛飾、南足立、北豊島3郡の12町村を給水区域とする「江戸川上水町村組合」の施設として給水開始。
  • 1932年(昭和7)
    東京市に引き継がれる。
  • 1936年(昭和11)8月
    水道応急拡張工事着工 その後中断される。
  • 1941年(昭和16)
    第二取水塔完成三角形のトンガリ帽子
  • 1948年(昭和23)8月~1953(昭和28)年3月
    工事再開、事業完了。
  • 1963年(昭和38)
    金町浄水場の施設能力を増強(江戸川系拡張事業、日量9 万5 千立方メートル)。
  • 1964年(昭和39)
    第三取水塔完成ドーム屋根)。第一取水塔の取り壊し。
  • 1992年(平成4)6月
    東京都で初めてオゾン生物活性炭とを組み合わせた高度浄水施設の運転を開始。
  • 平成8年4月 第二期施設完成
  • 平成25年3月 第三期施設完成

2011年の原子力発電所事故への対応

2011年3月23日、金町浄水場の水道水から1キロあたり210ベクレルの放射性ヨウ素が検出された(東京都発表)。これは、乳児の飲み水についての国の基準の2倍を超えるものであった。2011年の原発事故後、金町浄水場は放射性物質の除去効果が期待できるとして浄水に使う粉末活性炭の量を通常の3~4倍にして対応した。
現在は、日量150万立方メートルの全量に高度浄水処理を導入している。

金町浄水場 第二取水塔

1941年(昭和16)完成。約80年前のレンガ造りの建造物である。江戸川河口から17km上流に位置する。周辺には柴又帝釈天があり、映画「男はつらいよ」シリーズにも登場している。また、下流には矢切の渡しがある。

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下の写真の右手奥にみえるのが第三取水塔。第二取水塔の下流に位置する。

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第三取水塔

1964年(昭和39)完成。

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金町浄水場の施設

画像 金町浄水場の施設

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国土交通省の水位観測装置

画像 国土交通省の水位観測装置

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