江戸時代の旧江戸川の水は将軍が使う”名水”だった
江戸時代の旧江戸川の水は、きれいで、おいしい水として有名であり、徳川将軍家は船を使って、ここの水を江戸城に運び、茶の湯に用いたそうです。
とくに、熊野神社あたりの水は「熊野神社のだし杭のあるあたりの水」ということで「おくまんだしの水」と呼ばれた。野田の醤油の製造にも使用されたらしい。「おくまん」は、お熊さま(熊野神社)であり、「だし」はだし杭のことです。この熊野神社前の旧江戸川は川の流れの関係で深い淵になっていて、その水流が堤を壊すことを防ぐために、たくさんの「だし杭」が打ってありました。
江戸時代には、当然ながら新中川(下地図内の北からの流れ)はなく、旧江戸川はこのあたりはかなり急な流路であった。
また、熊野神社の境内には、松尾芭蕉の句碑がある。当時、芭蕉は深川に住んでいたが、おくまんだしの水を訪れ、
茶水汲む おくまんだしや 松の花
の一句を詠んだと伝えられているらしい。
深川→小名木川→新川→旧江戸川のルートは当時の水路である。
旧江戸川と熊野神社
熊野神社
熊野神社は、1704年から1711年に創立された旧下今井村の鎮守。祭神は伊邪那美命。江戸川(現在の旧江戸川)を行きかう舟人の信仰を集めた。この神社の前を通る船は帆を下げて、船路の安全を祈った。「おくまん様」と呼ばれる。現在は、堤防があるため、神社から川面を見ることはできない。
>>>「新中川の歴史と風景 中川との分岐地点と旧江戸川との合流地点」を見る
熊野神社前の旧江戸川の風景
流れは奥に向かっています。
旧江戸川と新中川の合流地点。左手前が新中川。左奥が旧中川。
>>>「新中川の歴史と風景 中川との分岐地点と旧江戸川との合流地点」を見る
松尾芭蕉の句碑
今井の渡し旧跡
このあたりには昔、今井の渡しがあった。この今井の渡しは明治45年に橋が架かるまで利用されていた。千葉県側の旧跡の案内板には以下のような記述がある。
寛永8年(1631)10月に許可された川幅114間(約207メートル)、水幅60間(約109メートル)の渡し。大正元年(1912)初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
連歌師柴屋軒宗長が永正6年(1509)浅草から船に乗り今井の津頭(わたしば)で下船、紀行文『東路の津登』で紹介したのが文献上のはじまりです。
江戸時代になっていたからは、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていました。正保元年(1644)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女二人久三郎とイネが駆け落ちしてきて禁を犯して今井側へ渡ろうとして捕らえられて船頭とその女房を含めて五名が磔の刑に処されました。
今井の渡し場から一丁(約109メートル)下流にあった磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が立てられて「ねね塚」といわれましたが、何れの頃かの洪水でその所在は不明になったとされています。(『葛飾誌略』)
行徳を往来した人と作品
市川市立歴史博物館展示資料では行徳を往来した人物を紹介している。当時、行徳までは小名木川→旧江戸川を通っていたと思われることから、この熊野神社前の江戸川を通ったものと思われる。
- 松尾芭蕉(1644-1694)「鹿島紀行(鹿島詣)」
- 大田南畝(1749-1823)「遊勝鹿記」
- 葛飾北斎(1760-1849)「ぎょうとくしほはまより のぶとのひかたをのぞむ」
- 小林一茶(1763-1827)「寛政三年紀行」
- 十返舎一九(1765-1831)「南総紀行旅眼石」
- 渡辺崋山(1793-1841)「四州真景図巻」
- 大原幽学(1797-1858)「道の記」