大岡越前が立ち寄った新堀・勝曼寺~吉宗の鷹狩り【江戸川歴史散策】
先日、江戸川区の平井地区にある「ひらい円蔵亭」の館長さんとお話させていただく機会がありました。その時、館長さんは「なかなか江戸川区を舞台にした落語の噺がないのでちょっと寂しいです」というお話をされていました。
>>>「落語文化発信拠点「ひらい圓藏亭」 落語”道灌”と”紀州” ~吉宗と小松菜」を見る
それ以来、個人的に江戸川区とゆかりのある落語の噺所を探していました。いろいろ資料を見ているなかで、江戸川区にはかの有名な大岡越前に縁深いお寺があることがわかりました。
徳川吉宗の鷹狩りに同行した大岡越前
今回、8代将軍徳川吉宗の鷹狩りの護衛官として同行した大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が立ち寄った勝曼寺(江戸川区新堀一丁目9-12)に出掛けてきました。
鷹狩りの廃止をした綱吉、復活させた吉宗
徳川家康以来、鷹狩りを好む将軍が続きましたが、「生類憐れみの令」をだした5代将軍綱吉は鷹狩りを廃止しました。それまで飼育されていた鷹は伊豆諸島で放たれたそうです。この鷹狩りを復活させたのが8代将軍吉宗です。吉宗は将軍に就任すると1716年(正徳6)にすぐに「鷹狩り」を復活させました。このとき、鷹狩をする場所(「鷹場」)として葛西、岩淵、戸田、中野、品川(のちの目黒筋)、六郷(のちの品川筋)の6筋が決められ、「御拳場」(おこぶしば)と呼ばれるようになりました。
吉宗は江戸川区の地を76回訪れています。将軍の鷹狩り行事を滞りなく行うために、延べ12,000人の村人が関わったそうです。(『江戸川ブックレット』)
葛西筋御場絵図 (国立国会図書館デジタルコレクション)
この「御拳場」6筋は、現存する『江戸近郊御場絵図』(国立国会図書館デジタルコレクション)によって確認することができます。
葛西筋御場絵図を見るには、パソコンで下のリンクをクリックしてください(スマートフォンでは地図の拡大ができないようです)。
地図が表示されたら、上部のメニューアイコンで時計回りに90度回転させると読みやすくなります。地図の右方向に現在もある地名とともに、「御膳所」「勝曼寺」を確認することができます。
>>>葛西筋御場絵図 (国立国会図書館デジタルコレクション)(外部リンク)
大岡越前が同行した新堀・勝曼寺への鷹狩りルートは?
大岡越前が同行したルートは、江戸城~本所掛川~逆井の渡し~西小松川に上がり、新堀の勝曼寺を御膳所(休憩する場所)としたと伝えられています(『江戸川区の民俗』)。つまり、今から300年前にこの逆井の渡しを8代将軍吉宗と大岡越前が通ったということです。
逆井の渡し
逆井(さかさい)の渡し跡
江戸川区
中川をわたる逆井の渡しは、「新編武蔵風土記稿」に「元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しをよべり」とあるように。もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総をむすぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。
逆井の渡し付近は風景も良く、安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋(ちんとりばし)でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。
大岡越前とはどんな人物か
大岡越前守忠助が勤めた江戸の町奉行は、南、北、中奉行の三町奉行。大岡越前は吉宗の直々の任命により41才で南町奉行に就任しました。歴代の町奉行就任年齢は60才の定年間近だったそうなので、相当に優秀で将軍の信頼が厚かったことがわかります。
当時、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行で構成されていた奉行職でしたが、大岡越前は最高位の寺社奉行兼奏者番(城中の武家礼式の管理者)を歴任し大名にまで上り詰めました。町奉行から大名になったのは大岡越前だけなのです。
町奉行時代から江戸町火消し(「いろは組」の創設)や小石川養生所の立ち上げなど、享保の改革の中心人物として都市政策にかかわりました。晩年は、要職を退きましたが、奏者番として吉宗の葬儀(1751年6月20日死去)を仕切り、翌年の1752年12月19日に、75歳で亡くなりました。
大岡裁きの逸話は落語、講談、時代劇で知るところですが、将軍のブレーンとしての活躍ぶりを知るにつれ、興味がますます湧いてきます。華麗なる大岡裁き、江戸中、拍手喝采で沸いたことが想像できます。
新堀・勝曼寺( 御膳所)
大岡越前が将軍の鷹狩りのお供で立ち寄っていた御膳所である勝曼寺は、京葉道路を市川方面に向かい環状七号線を越えて、一之江橋を渡り、すぐ左に入ります。一つ目の信号を左に曲がった右手にあります。以前は松並木参道があったようですが、残念ながら今はありません。目印は、新堀庭園(庭師の講習会などを行っている、とても綺麗な公園庭園)です。
想像してください!大岡越前が鷹狩りの休憩中に空を見上げて難事件、難問題解決の手がかりを思い付いたかもしれません。大岡越前!!ワクワクします。「ひらい円蔵亭」で大岡政談聴きたいですね。
「大工調べ」「唐茄子屋政談」「三方一両損」
いずれも人情溢れる、い~い噺ですから!
>>>ひらい円蔵亭のイベント紹介(江戸川区公式ホームページ)(外部サイト)
下は勝曼寺の正面の写真です。
案内板には、以下のようにあります。
元禄の頃(一六八八-一七〇四)秀翁和尚によって中興され、将軍鷹狩りのときに何度か御善所にあてられました。
北海道料理を楽しめる<しれとこ>
ちょっと、大岡越前に思いをはせすぎて興奮してしまいお腹が空きました。そこで、昼食場所に選んだのは勝曼寺から200メートルほどのところにある北海道料理を楽しめる<しれとこ>。北海道直送の鮭料理は有名なので、久しぶりに寄ってみました。創業は昭和35年北海道で創業、この建物は知床の原始林の丸太でたて建てたそうです。
玄関からなんとも雰囲気のあるたたずまいは数年前に訪れたときと変わっていなかったので、なんだかほっとした気分になりました。
少し明かりを押さえた店内、天井から鮭(木工鮭)が所狭しと飾られています。座敷に上がりテーブルにつきました。相変わらずテーブルの天板がとても厚いので、あぐらをかくと膝が入らない。それもこれも、<しれとこ>です。料理はやはり鮭定食。満足万蔵でした。
手の行き届いた新堀庭園
帰りがけに、新堀庭園、瀬戸口公園、穀倉公園を廻ってきました。いずれも新堀一丁目、勝曼寺から200メートル圏内です。
下の写真は新堀庭園です。手の行き届いた美しい庭園です。新堀は思っていた以上に見所がたくさんありました。