江戸川区の川・海 江戸川区の歴史・名所

荒川(荒川放水路)の歴史と風景 旧岩淵水門と荒川河口

荒川(荒川放水路)の歴史と風景 旧岩淵水門と荒川河口

江戸時代には江戸の市街地を守るために荒川(現在の隅田川)の上流側に日本堤墨田堤が築堤されました。これにより江戸のまちは守られましたが、上流側では長い間、洪水と闘うことになったのです。明治に入っても、洪水は頻繁に発生し、明治元年~43年までの10回以上の床上浸水被害が発生したとの記録があります。

荒川(放水路)の建設

荒川(放水路)の建設は、明治43年の洪水被害(※)を契機として計画されたものです。明治44年(1911)に荒川放水路事業が始まり、隅田川に堤防がなくても洪水が氾濫しないことが目指されれました。この事業により用水路予定地の住民1,300世帯が移転を余儀なくされたとあります。移転対象地域には、民家や田畑ばかりではなく、鉄道や寺社も含まれていました。現在、江戸川区平井にある善通寺(浄土真宗本願寺派は、もともと旧東小松川村にありましたが、この建設事業により大正4年(1915)に現在地に移転しました。

※明治43年の大水害は、破堤箇所数十か所、死者369名、被災者150万人、流失・全壊家屋1679戸、浸水家屋27万戸、被害総額は国民総所得の約4.2%

『荒川放水路変遷誌』(荒川河川事務所)には、約2年間で建設予定地の96%の買収が完了したとあります。1300世帯分の土地を2年間で買収する。現代では考えられない速さで進められたようです。この報告書には「当時の用地買収では、移転を余儀なくされる人々の個々の事情などは考慮されませんでした。」との記述があります。

荒川放水路は、工事中における風水害や関東大震災等による工事の遅れがありましたが、昭和5年(1930)に完成しました。荒川放水路が完成してから約90年を経過していますが、その間荒川の洪水による被害は一度も起きてはいません。

下の地図は荒川放水路が完成するまでの首都圏の地図。荒川放水路の建設がいかに大工事であったことを確認することができます。

明治42年(1909)の地図

画像 明治42年(1909)の地図
明治42年(1909)の地図

大正6年(1917)の地図

明治44年(1911)に始まった荒川放水路の建設。建設中の荒川放水路を確認できます。

地図 大正6年(1917)の地図
大正6年(1917)の地図

昭和5年(1930)の地図

荒川放水路完成時の地図。中川(現在の旧中川)が分断されています。

画像 昭和5年(1930)の地図
昭和5年(1930)の地図

昭和22年(1947)の地図

画像 昭和22年(1947)の地図
昭和22年(1947)の地図

昭和41年(1966)の地図

画像 昭和41年(1966)のマップ
昭和41年(1966)のマップ

昭和60年(1985)の地図

葛西海岸の埋め立てが進んでいることが確認できます。

画像 昭和60年(1985)のマップ
昭和60年(1985)のマップ

平成13年(2001)のマップ

画像 平成13年(2001)のマップ
平成13年(2001)のマップ

これらの地図は「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。

岩淵水門 荒川と隅田川の分岐点(旧岩淵水門と岩淵水門)

岩淵水門(青水門)は隅田川の洪水を防ぐために設けられています。大雨などにより荒川上流からの流量が増えた場合に、岩淵水門を閉め切って隅田川への水の流入を防ぎます。

荒川に関する資料は「荒川知水資料館アモア」に保管されています。

>>>「荒川知水資料館アモア  荒川の歴史資料を見学」を見る
>>>「荒川知水資料館アモア」を見る(外部リンク)

「荒川知水資料館アモア」にある岩淵水門のジオラマ

画像 知水資料館アモアにある岩淵水門のジオラマ
知水資料館アモアにある岩淵水門のジオラマ

青水門

青水門は1982年(昭和57年)竣工しました。

画像 岩淵水門(青水門)
岩淵水門(青水門)

赤水門

赤水門は1924年(大正13年)に竣工しました。 旧岩淵水門、荒川放水路の工事を指揮したのは土木技術者である青山士(あおやまあきら)氏です。青山氏は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった人物です。 青山氏関する資料は、「荒川知水資料館アモア」に展示されています。

>>>「荒川知水資料館アモア 荒川の歴史資料を見学」を見る

画像 旧岩淵水門(赤水門)
旧岩淵水門(赤水門)

荒川の洪水記録 岩淵水門にある案内板

洪水記録の案内板には以下のように書かれています。

荒川水位の観測を始めた昭和2年から現在(平成12年)までの74年間における各年最高水位を大きいものから並べると次のとおりです。
第1位 AP8.60m 昭和22年9月16日(1947年)カスリーン台風
第2位 AP8.27m 昭和16年7月23日(1941年)台風
第3位 AP7.48m 昭和33年8月20日(1958年)狩野川台風
第4位 AP7.30m 昭和3年8月1日(1928年)台風
第5位 AP6.48m 昭和13年9月21日(1938年)台風
第6位 AP6.30m 平成11年8月15日(1999年)熱帯低気圧豪雨
A.P.(エーピー)は、Arakawa Peilの略。東京湾霊岸島量水標零位を基準とする基本水準面。荒川、中川、多摩川等の水位の基準。Peilはオランダ語。

画像 荒川の洪水記録
荒川の洪水記録
画像 荒川の最高水位
荒川の最高水位

荒川と隅田川の分岐点

中の島方面を撮影。中の島の左手奥への流れが荒川。手前の流れが隅田川。

画像 荒川と隅田川の分岐点
荒川と隅田川の分岐点

中の島から上流方面を撮影。左への流れが隅田川、右への流れが荒川である。

画像 中の島から撮影した荒川と隅田川の分岐点
中の島から撮影した荒川と隅田川の分岐点

旧岩淵水門(赤水門)

画像 旧岩淵水門(赤水門)
旧岩淵水門(赤水門)
が負う 旧岩淵水門の案内板
旧岩淵水門の案内板
画像 旧岩淵水門(赤水門)
旧岩淵水門(赤水門)

東京都選定歴史的建造物の案内板

旧岩淵水門は、東京都の歴史的建造物に選定されています。以下は、東京都選定歴史的建造物の案内板での紹介文です。

旧岩淵水門(Iwabuchi-Watergate)

旧岩淵水門は、明治43年(1910)東京市探知を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事と業の一部として隅田川との分派点に設けた。
水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し、同13(1924)に竣工した。

昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。

その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。

案内板の写真

画像 東京都選定歴史的建造物の案内板

(クリックで拡大)

岩淵水門(青水門)

画像 岩淵水門2(青水門)

(クリックで拡大)

JR総武線の鉄橋と蔵前橋通りの間の荒川河川敷の風景(江戸川区)

荒川河川敷

ポピー
コスモス
画像 荒川河川敷のコスモス
荒川河川敷のコスモス
画像 荒川河川敷のコスモス
荒川河川敷のコスモス
画像 荒川河川敷のコスモス
荒川河川敷のコスモス
画像 荒川河川敷のコスモス
荒川河川敷のコスモス
画像 荒川河川敷のコスモスと蜂
荒川河川敷のコスモス
画像 荒川河川敷のコスモス
荒川河川敷のコスモス
荒川河川敷のヒナゲシ
画像 荒川河川敷 ヒナゲシ育成中(冬の景色)
荒川河川敷 ヒナゲシ育成中(2017年2月冬の景色)
画像 荒川河川敷 ヒナゲシ育成中(冬の景色)
荒川河川敷 ヒナゲシ育成中(冬の景色)
画像 荒川河川敷
JR総武線の鉄橋と荒川河川敷
蔵前橋通り

荒川下流

画像 荒川
荒川
画像 荒川
荒川

荒川と中川の合流地点

荒川と中川が合流する地点。奥に右から左の流れが荒川。手前の流れが中川。

画像 荒川と中川が合流する地点
荒川と中川が合流する地点

荒川河口の風景

荒川(右側)から奥(東京湾)へのの流れ。

画像 荒川河口の風景
荒川河口の風景

-江戸川区の川・海, 江戸川区の歴史・名所