落語文化発信拠点「ひらい圓蔵亭」 落語”道灌”・”紀州”~吉宗と小松菜【江戸川歴史散策】
先日、江戸川区の平井にある「ひらい圓蔵亭」の館長さんからお話しを聞く機会がありました。「ひらい圓蔵亭」は、 落語家の八代目橘家圓蔵師匠が暮らしていた平井の邸宅を一般公開しているものです。2017年7月から公開されています。館内では、八代目橘家圓蔵師匠のネタ帳や扇子、トレードマークだった黒縁眼鏡、着物の展示や落語テープも流されています。
ひらい圓蔵亭
所在地 江戸川区平井三丁目21番24号
開館日 毎週木曜日から日曜日 年末年始を除く
開館時間 午前10時から午後4時
入場料 無料
一階の展示
玄関を入ってすぐ左手にある応接室は、圓蔵師匠の落語の映像や江戸川落語の音源を鑑賞できるスペースです。一階廊下の突きありにある和室には、圓蔵師匠の等身大パネルが設置されています。様々なイベントはここで行われます。そして、隣のリビングは圓蔵師匠の資料や落語書籍が展示されています。
二階の展示
二階への階段には圓蔵師匠の手ぬぐいや写真が展示。2階の和室には、圓蔵師匠の着物や履物、眼鏡などが展示されています。奥の書斎では圓蔵師匠の生い立ちが紹介されています。
ひらい圓蔵亭の館長さんにお話しをうかがいました
館長さんは「 ひらい圓蔵亭を落語文化の発信拠点としていかなければならないので、知恵を絞っています」と、圓蔵亭で開催しているいろいろな企画事業について話してくれました。
「企画事業として、”社会人落語会”や”若手落語会”をはじめ、”圓蔵亭昔語り”、”落語を歩く”、”ビデオ落語会”、”落語関連の講座”、”子ども向けお話会”など、多くの世代の方に楽しんでもらえるようなイベントを随時行っているところなんです」。「ただ、なかなか江戸川区を舞台にした落語の噺がないのでちょっと寂しいです」とのことでした。
江戸川区公式ホームページを見ると、定期開催の「落語会」や「子ども向けのおはなし会」に加えて、毎月のイベントが数多く紹介されています。月のイベントは事前申込が必要のようですが、電話で申し込みができるのでとても簡単です。
>>>ひらい圓藏亭のイベントを見る(江戸川区公式ホームページ・外部リンク)
八代目橘家圓蔵師匠の紹介
ひらい圓蔵亭前の平井公園内にある八代目橘家圓蔵師匠の紹介板。
圓蔵師匠の紹介板がある平井公園(360度カメラ撮影)
平井公園を360度カメラで撮影してみました。ファイルの読み込みに時間がかる場合があります。
八代目橘家圓蔵と<ひらい円蔵亭> 八代目橘家圓蔵の経歴
八代目橘家圓蔵、本名大山武雄さんは、昭和九年(1934)に本所で生まれましたが、すぐに一家が平井の借家に移り、以来平井で育ちました。昭和二十七年、七代目橘家圓蔵師匠(当時、月の家円鏡)に入門、その後八代目桂文楽師匠の内弟子となっています。昭和三十一年圓蔵のもとに戻り、四十年に真打ち昇進、三代目月の家円鏡となり、五十七年に、八代目橘家圓蔵を襲名しました。その頃、古今亭志ん朝、三遊亭円楽、立川談志とともに落語会若手の四天王といわれています。
「落語家には、三つの道しかありません。うまい落語家、達者な落語家、おもしろい落語家です。達者なのは立川談志さん、うまいのは古今亭志ん朝さんですから、私はおもしろい落語家を目指しました。」 八代目橘家圓蔵談より
自らの家も平井に建て、平成十三年(2001)に平井公園の前に移って建てた新居が終の棲家となりました。
平成二十七年十月七日、八十一歳でこの世を去りました。自宅は平成二十八年に区の所有となり、翌平成二十九年七月から<ひらい円蔵亭>として一般に公開しています。
江戸川区
圓蔵亭の館長さんから落語の話を聞きながら、ふと”太田道灌(1432~1484年)(おおたどうかん)が新小岩厄除け香取神社(間々井宮)に立ち寄っていたという言い伝え”があったことを思い出しました。
太田道灌が江戸川区の香取神社に祈願
太田道灌は、室町時代後期の武将。江戸城を築城したことで有名です。この太田道灌が活躍していた時代は、関東地方は戦国時代として30年近く争い事が続いたため、利根川沿いに多くの山城が作られました。その中でも利根川の下流の武蔵国の領主であった江戸氏の領地に江戸城を築いた道灌は、武蔵江戸城と下総国府台(城)真間を往来していました。このとき、現在の江戸川区の香取神社に船を泊め、霊水を汲み航路の安全を祈願したと伝えられています。
新小岩厄除香取神社(間々井宮)
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷謙二)により作成。
落語「道灌」
太田道灌にまつわる落語を紹介します。落語の演目はまさに「道灌」。江戸発祥の落語で、初代林家正蔵の咄本『落噺笑富林』(1833年(天保4年)刊)に載っているようです。そもそもは前座話のひとつなのですが、三代目三遊亭金馬、五代目柳小さんは得意ネタとして晩年にも演じていたものです。
なお、 『落噺笑富林』は国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
>>>『落噺笑富林』を国会図書館デジタルコレクションで見る(外部リンク)
話の内容は、隠居と八五郎の掛け合いで、ご隠居の家の屏風の絵柄を八五郎に説明するが八五郎のとんちんかんな解釈で笑いをとるというもの。
屏風の貼り絵は道灌が鷹狩のいで立ちと若い娘が描かれています。道灌が狩の最中に雨にあい、雨具を借りようと一軒のあばら屋を尋ねる。出てきた娘は「お恥ずかしゅうございます。」と言って、山吹の枝をお盆にのせて差し出した。しかし道灌が意味をつかみきれないでいると、家臣が「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」の古歌になぞらえて、「蓑」と「実の」をかけて「お出しできる雨具はございません」という断りでございましょうと進言した。これを聞いて道灌はまだまだ歌道に暗いと嘆き、和歌に励み歌人として知られるようになったと言います。『山吹の里』の話です。
徳川吉宗公と小松菜
太田道灌が 西小松川の香取神社(間々井宮)に立ち寄ってから100年以上経過した享保4年(1719年)、八代将軍徳川吉宗公が鷹狩の際の食事をする場所として、この香取神社(間々井宮)が選ばれました。しかし、これといって差し上げるものもなかった神主・亀井和泉守は、餅の澄まし汁に青菜をあしらって出しました。青菜を召しあがった吉宗公は大変喜んだそうです。吉宗公は、”小松川”にちなんで、名のなかったその青菜に「小松菜」と命名したのです。以降、小松菜は八代将軍吉宗に名付けれた青菜として江戸のブランド野菜となった話は有名です。
小松菜屋敷(江戸川区)
香取神社の隣には小松菜屋敷があります。この屋敷は小松菜の発祥の地と言われている屋敷です。吉宗公に青菜をあしらった澄まし汁を出した神主・亀井和泉守の屋敷跡といわれています。隣の香取神社境内には、小松菜ゆかりの里という石碑があります。
小松菜屋敷(旧いづみ様)の由来
八代将軍徳川吉宗(有徳院)は、「鷹将軍」と異名のあるほど鷹狩りを好み、湿地帯が多く好狩場であった葛西領の、とくに現在の江戸川区には七十六回も訪れている。
将軍が鷹狩に来られた際、食事をとる所を「御善処」といい近くの社寺が利用された。
亀井家(昔より土地の人々に「いづみ様」とよばれてきた)に伝わる話として、享保四年(一七一九)に吉宗公が来られた際、御善処となったのが、西小松川の間々井の森の香取社で、ときの神主・亀井和泉守が、餅の澄まし汁に冬菜を添えて差し上げたところ、将軍はその冬菜の香味を大変喜ばれた。未だこの菜に名前がなかったところから、小松川の里の菜ゆえに「小松菜」と命名されたと伝えられている。
以来、鷹狩りの際にはいつもおみやげとして地元の村から小松菜が献上されたという。(亀井千歩子『小松菜の里』より)
邸内には亀井家の屋敷神、通称“小松菜さま”が祀られています。困った事があれば「こまつたな」といって小松菜を添えれば願い事が叶えられ、さらに「菜(名)を上げ菜(名)を残す」といって、昔から信仰されています。
平成十三年十月吉日 日本地域文化研究所
落語「紀州」
ここで、吉宗公にまつわる落語を紹介します。演目は「紀州」。これは、五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭円生等が演じた噺です。
あらすじは、七代将軍徳川家継が幼くして亡くなったため、次代の将軍候補に、六代目尾張藩主徳川継友と五代目紀州藩主徳川吉宗が選ばれました。継友が江戸城に登城する時に遠くから鍛冶屋の「トンテンカン、トンテンカン」と鉄を叩く音が聞こえてきたのです。継友には、この音が「テンカトル、テンカトル」と聞こえました。
しかし、八代将軍に選ばれたのは紀州藩主徳川吉宗でした。継友はがっかりして江戸城を下がる帰り道、ふたたび鍛冶屋の「テンカトル、テンカトル」と鉄を叩く音が聞こえてきました。
継友は、この音は吉宗が八代将軍を辞退して、自分が将軍になるきっかけの音だと思ったのです。が、鍛冶屋が鉄を水につけた瞬間に「キイ~シュウ」と音が聞こえたという落です。
もし、徳川吉宗が八代将軍にならなかったら、江戸川区発祥の小松菜と言う江戸ブランドは生まれなかったことでしょう。
「キイ~シュウ」万歳!!