荒川知水資料館アモア 荒川の歴史資料を見学
地下鉄南北線志茂駅から徒歩で13分程度。住宅街を抜けて、土手沿いの道に出ると資料館(平成10年3月開館)が見えてきます。この資料館では荒川放水路の歴史や災害時の情報を学ぶことができます。今回は、荒川放水路の開削に関する資料の展示を中心に見学してきました。
荒川放水路は明治43年の洪水被害を契機として計画され、昭和5年に完成しました。この荒川放水路は,現在「荒川」と呼ばれている河川のうち東京都北区の岩淵水門から足立区、墨田区、葛飾区、江東区、江戸川区を経て東京湾にそそぐ延長22キロメートル・幅500メートルの部分です。
荒川(放水路)の歴史については、以下の記事をご覧ください。
>>>「荒川(荒川放水路)の歴史と風景」を見る
下の写真の中央にある建物が荒川治水資料館。
アモアの展示物
- 1階は、荒川の上流から河口までの概略図の荒川情報ボード、水槽コーナー、荒川周辺の衛星写真、休憩スペースなど
- 2階は、荒川放水路の歴史と課題の解説、荒川洪水時のシミュレーション映像、旧岩淵水門と荒川水門工事を指揮した青山士コーナー
- 3階は、オープンスペース
旧岩淵水門周辺のジオラマ
下のジオラマで、 左が荒川上流、右への流れが下流。左からのひとつの流れが中の島付近で二つの流れに分岐しています。右上への流れが荒川(荒川放水路)、右下への流れが隅田川。
下のジオラマで、荒川治水資料館、旧岩淵水門(赤水門)、岩淵水門(青水門)の位置をを確認できます。旧岩淵水門は運用されていません。
大正4年(1915)の旧岩淵水門周辺の地図
大正4年(1915)の旧岩淵水門周辺の地図です。この時期は、荒川放水路が工事中であることがわかります。下の地図は「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成しました。
現在の旧岩淵水門周辺の地図
荒川放水路の開削事業 青山士コーナーや使用されたトロッコなどが展示
荒川(放水路)の建設は、明治43年の洪水被害を契機として計画されたものです。明治44年(1911)に荒川放水路事業が始まり、隅田川に堤防がなくても洪水が氾濫しないことが目指されました。昭和5年(1930)に20年かかりで完成しました。
青山士(あおやまあきら)コーナー
旧岩淵水門、荒川放水路の工事を指揮した土木技術者である青山士(あおやまあきら)の展示コーナー。青山は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった人物です。
青山が設計・施工に尽力した岩淵水門は、現場の土質が軟弱であったことから、放水路工事の中でも難しいもののひとつだったらしい。その岩淵水門の基礎は、川底よりさらに20mの深さに鉄筋コンクリートの枠を6個埋めて固めた。当時、「そこまで頑丈にする必要があるのか」という声もあったが、、青山はゆずらなかったそうです。結果的に、この水門は大正12(1923)の関東大震災にも大きな被害をうけずに完成にいたりました。
下の写真は明治44年にパナマから引き揚げたときに青山が持ち帰った旅行カバン。
荒川放水路の開削事業の経緯
- 1910(明治43年) 荒川の改修計画立案
- 1911(明治44年) 放水路事業に着手。用地買収と移転の協議。
- 1913(大正2年) 人や馬を使って高水敷の掘削工事。
- 1914(大正3年) 浚渫船を使って河口部より低水路の浚渫始まる。
- 1916(大正5年) 岩淵水門着工。
- 1918(大正7年) 新川水門着工。
- 1919(大正8年) 小名木川閘門着工。
- 1923(大正12年) 9月1日関東大震災。
- 1924(大正13年) 岩淵水門竣工。荒川放水路全線通水。
- 1926(昭和元年) 小名木川閘門着工。
- 1927(昭和2年) 船堀閘門着工。
- 1930(昭和 5年) 荒川放水路工事が完成する。
参考文献 『荒川放水路変遷誌』2011,荒川下流河川事務所
放水路開削工事で使用された小型トロッコ(ナベトロ)
開削工事で課題であった大量の土砂を運ぶために使用されました。500台ちかくのトロッコが活躍したそうです。土砂を入れるバケット部分がナベ(鍋)に似ていることから、通称「ナベトロ」と呼ばれました。
人力による整地工事 ジオラマ
蒸気掘削機による掘削工事 ジオラマ
線路を敷き、その上に蒸気掘削機を動かして低水路を掘った。掘った土は、機関車とトロッコで運ばれました。
浚渫船(しゅんせつせん)による浚渫工事 ジオラマ
浚渫船による浚渫工事の風景。水路に水をひいた後、浚渫船でさらに川底を深く掘っていきます。掘った土は、船やポンプを使って運ばれました。
旧岩淵水門
現在は遺産として残る旧岩淵水門。下は旧岩淵水門の前に設置された案内板
旧岩淵水門(Old Iwabuchi Water Gate)
■旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。この後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩い場として保存されています。近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が選定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
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岩淵水門(青水門)
昭和57年完成。
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荒川周辺のジオラマ。荒川下流域の地盤の低さがわかる。
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資料館内展示写真 荒川の源流
案内パネルの説明より引用
荒川の源流は、甲武信ケ岳の山腹、標高2000m近くにある真の沢のあたりといわれています。水源の付近では、地表からわきだす地下水が少しずつ集まり、たくさんの小さな谷川となって流れています。荒川の起点の碑は、甲武信小屋より30分ほど真の沢方面に下りた苔むす水源涵養地に設けられています。荒川の流路延長173kmはこの起点から東京湾の河口までの距離を計算したものです。
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堤防・中の島の風景
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草刈の碑
中の島には「草刈の碑」と書かれた石碑があります。昭和13年から昭和19年にかけて荒川土手で行われた「全日本草刈選手権大会」を記念して作られたもの。「農民魂は先づ草刈から」という碑文。
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中の島から上流方向を撮影
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荒川と隅田川の分岐点周辺。右側は旧岩淵水門(赤水門)
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荒川と隅田川の分岐点周辺。
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昭和2年から現在(平成12年)までの74年間における各年最高水位
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- 第1位 AP8.60m 昭和22年9月16日(1947年)カスリーン台風
- 第2位 AP8.27m 昭和16年7月23日(1941年)台風
- 第3位 AP7.48m 昭和33年8月20日(1958年)狩野川台風
- 第4位 AP7.30m 昭和3年8月1日(1928年)台風
- 第5位 AP6.48m 昭和13年9月21日(1938年)台風
- 第6位 AP6.30m 平成11年8月15日(1999年)熱帯低気圧豪雨
※A.P.(エーピー)は、Arakawa Peilの略。東京湾霊岸島量水標零位を基準とする基本水準面。荒川、中川、多摩川等の水位の基準。Peilはオランダ語。
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船堀閘門の頭頂部
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参考情報
大島・小松川公園内にある旧小松川閘門。
船堀閘門と旧小松川閘門の頭頂部はほぼ同型。
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