地図でみる江戸川区の水との闘いの歴史(明治~昭和・100年の歴史)
1909年(明治42)からの100年を9つの時期に分けて江戸川区とその周辺の地図を確認してみます。この100年の間に、江戸川区にはいくつもの放水路がつくられ、また海の埋め立てが行われてきたことがわかります。
江戸川区の位置
江戸川区は東京都の最東端に位置しています。江戸川を境に千葉県に接し、北・西方位は葛飾区・墨田区・江東区に隣接しています。南端は東京湾です。地形は平坦で、南北に約13キロメートル、東西に約8キロメートル。面積は49.09平方キロメートルです。
1909年(明治42)の地図
江戸川区の西側を流れるのは中川(現在の旧中川)です。東側を流れるのが江戸川、江戸川区のやや下の東西に流れる川が徳川家康によって作られた新川です。また、新川が中川と合流地点から江戸城に伸びている流れ(水路)が小名木川です。
1917年(大正6)の地図
1917年(大正6)の地図から、荒川放水路と江戸川放水路がいずれも建設中であることがわかります。荒川・中川放水路事業は1911年(明治44)に開始され、江戸川の改修事業は1914年(大正3)が開始されました。
荒川放水路は、江戸川区の北西部分から下り、中川を横切る形で開削されているのが見てとれます。また、江戸川放水路は江戸川区の東端あたりから東京湾に向かって開削されていることがわかります。現在、かつての荒川放水路は「荒川」と呼ばれ、江戸川放水路は「江戸川」と呼ばれています。江戸川放水路より下流のもともとの江戸川は現在「江戸川」と呼ばれています。
1932年(昭和7)の地図
江戸川放水路(現在の江戸川)は大正8年に完成し、荒川放水路(現在の荒川)と中川放水路(現在の中川)は1930年(昭和5)に完成しました。
1945年(昭和20)の地図
1934年(昭和9)に葛西海岸堤防の改築が10か年計画で開始されました。しかし、1939年(昭和14)に戦局激化により葛西海岸堤防の改築は中止となりました。その2年後の1941年(昭和16)には開削工事が開始されましる。葛西海岸堤防の改築や新たな中川放水路の開削の背景には、江戸川区内の度重なる水害があったのです。
- 1938年(昭和13)9月の台風(高潮)により、23,000戸が浸水し、1,000人以上が被災
- 1947年(昭和22)9月のカスリーン台風(利根川決壊)により、30,506戸が浸水し、132,991人が被災
- 1949年(昭和24)8月の キティ台風(高潮)により、12,545戸が浸水し、62,324人が被災
1951年(昭和26)葛西海岸堤防が着工され、1957年(昭和32)に葛西海岸堤防が完成しました(延長4,461メートル)。
葛西海岸堤防の外(海)側には、地盤沈下で水没した民有地があった。
1966年(昭和41)の地図
1963年(昭和38)の地図をみると、新中川放水路(現在の新中川)が完成していることがわかります。江戸川区の中心を南北に流れるのが新中川です。この時期の地図には葛西海岸堤防を確認することができます。
1976年(昭和51)の地図
東京都は1972年(昭和47)に葛西臨海公園・葛西海浜公園が都市計画公園として計画を決定しました。同年8月24日には、「葛西沖土地区画整理事業」に着手し、葛西沖の埋め立てを開始しました。これによって葛西海岸堤防はその役割を終えることになりました。
下の地図では、葛西沖の埋め立てが進んでいることがわかります。
昭和41年以降も江戸川区では何度も水害が発生しています。
- 昭和41年6月:台風第4号(内水氾濫) 4,064世帯の浸水、10,200人が被災
- 昭和46年8~9月:台風第23-25号(内水氾濫) 1,973世帯の浸水、約8,000人が被災
- 昭和56年10月:台風第24号(内水氾濫) 10,289世帯の浸水、31,383人が被災
内水氾濫とは?
平坦地に強い雨が降ると、雨水ははけきらずに地面に溜まります。低いところには周囲から水が流れ込んできて浸水深がより大きくなります。また、排水用の水路や小河川は水位を増して真っ先に溢れ出します。このようにして起こる洪水を内水氾濫と呼び、本川の堤防が切れたり溢れたりして生ずる外水氾濫と区別しています。防災科学研究所ウェブサイトより引用
1985年(昭和60)の地図
1993年(平成5)の地図
1989年(平成元)6月1日に、葛西臨海公園・海浜公園が一部開園しました。また、10月には葛西臨海水族園が開園、12月には江戸川区立のホテル「シーサイド江戸川」が公園内に開業しました。さらに、1994年(平成6)には「鳥類園」が開園しました。
2001年(平成13)の地図
以上の地図は時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。