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河川・水門・橋

行徳の塩 江戸川~小名木川で江戸に運ばれた 

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行徳の塩 江戸川~小名木川で江戸に運ばれた

1590年(天正18年)、江戸城に入った徳川家康は行徳の地を所領に組み込んだ。当時は戦国の遺風が残り、家康も江戸城における籠城の際に塩を確保するために自領内での塩の安定供給に尽力し、行徳を御手浜としてこの地の塩業を保護した。

江戸時代の行徳は製塩が盛んであり、生産量では瀬戸内や北九州には及ばなかったが、関東随一を誇ったそうだ。

明和年間に行徳側が作成した『塩浜由緒書』によれば、鷹狩で東金御殿に出かける途中、行徳の塩浜をみて「軍用第一、領地一番の重宝」と述べたと伝えられている。行徳は東金に向かう街道のルート(行徳街道)として定められ、後には江戸から成田山新勝寺への参詣ルートとなり、沿道はその宿場町として栄えた。更に徳川家光の1632年には関東代官によって現在の日本橋小網町までの水路(小名木川の原型)設置が許可されて江戸と常総・利根川方面との水運の中心地となった。

市川市歴史博物館の展示資料より

市川市の歴史を学ぶことができる博物館。かなり充実した展示である。設立は昭和57年のようである。
常設展示は、「中世以降の市川」「海辺の人々の生活」「水路と陸路」「台地の人々の生活」「郷土コーナー」で構成されている。

画像 市川市立歴史博物館

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「行徳と塩」の展示

「海辺の人々の生活」のなかで塩づくりの方法とその道具や古文書が展示されている。

近世の塩の大半は瀬戸内産のものが使われていました。しかし、関東・東北では行徳の塩業がおおきな役割を果たしていました。当時、世界的な都市であった江戸に近かったということもおおいに関係していたのです。また、幕府に保護されていたことも特色でした。行徳の村々は、江戸川下流左岸の小高い場所に家屋敷が並び、その東側に大きなハマがあり、青い海に向かって塩田が広がっていました。
市川市立歴史博物館展示資料より引用

行徳では入浜法(いりはまほう)により塩がつくられていた。入浜法とは、干満の差を利用しながら海水を引き入れた砂浜(塩浜)を利用して塩をつくる方法である。行徳と塩の歴史については、市川市立歴史博物館が詳しい。

行徳と塩

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行徳船場 行徳のはじまり

江戸時代前期の寛永9年(1632)に、江戸川(現在の旧江戸川)沿いの本行徳村(現在の市川市)に河岸場(船場)が設置された。

行徳は荷物の運搬や旅人の往来に都合がよい場所であったため、江戸日本橋の小網町三丁目(現在の中央区)と安房・上総・下総・常陸の4か国を結ぶ舟運の拠点として、幕府が認めた。

行徳の常夜灯

常夜灯

江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは寛永9年(1632)。本行徳村は航路の独占権を持ち、ここに河岸を設置した。船は毎日午前6時から午後6時まで運航された。この船は一般に「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれた。
やがて文化・文政期(1804~1830)になると、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増え、江戸との往来がますます盛んになりました。

この常夜灯が立つ場所は”新河岸(しんかし)”と呼ばれ、房総と常陸への街道の起点であり、北関東や東北からの水運による江戸への物資輸送の中継点でもあった。房総の海産物、北関東の野菜、行徳の塩など多くの物資が集まった場所である。また、この場所は、江戸時代に江戸と房総や北関東、東北地方へ、人の輸送を結ぶ拠点でもあった。江戸日本橋小網町→小名木川→新川→旧江戸川を経て行徳新河岸(日本橋小網町から行徳新河岸まで約12.6キロメートル)で上陸し、鹿島街道、佐倉街道(現千葉街道)、成田街道へ向かったのである。

元禄3年(1690)に景観整備されたと推察され、常夜灯は文化9年(1812)に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が航路安全を祈願して成田山に奉納したものである。

画像 常夜灯

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下の写真の案内板より引用。

市指定 常夜灯 有形文化財(昭和35年10月7日指定)
この常夜灯は、文化9年(1812)、江戸日本橋の成田講中成田山新勝寺への講の人々がたてたものです。成田講中が航路安全を祈願して建てたと推察されます。なお側面には協力した人々の名前が刻まれています。江戸時代、成田山新勝寺には江戸から多くの人々が参詣しました。行徳は、江戸から成田にかけての重要な中継地点でした。
左下の図は、『江戸名所図会』に描かれた現在地の景観です。左隅に常夜灯と思われる灯籠が建っています。江戸時代後半の記録にも、常夜灯は「川岸に立つ」とあります(『葛飾誌略』)。また図には、現在のような堤防は描かれておらず、船から降りた人々は高低差の小さな地から陸地にあがったとみられます。
そして、常夜灯付近の現在地を新河岸(船着場)とも呼びました。
「新」の字が示すように、元禄3年(1690)、図にあるような景観が整備されたと推察されます(『葛飾誌略』)。また、この地から江戸に向けて船が行き交っていました。一般に、この船は行徳船と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由し、日本橋小網町まで就航していました(約12.6キロ)。成田講中の人々や行徳産の塩も、行徳船を利用して江戸に運ばれたようです。
また有名な人物として、松尾芭蕉(俳人)渡辺崋山(田原藩家老)なども行徳を訪れています。特に渡辺崋山は『四州真景図巻』という作品の中で常夜灯及び周辺景観をスケッチしています。
明治時代になると、江戸川には蒸気船がみられるようになります。
『成田土産名所尽』という記録には、明治以降の常夜灯の周辺の様子が描かれています。常夜灯周辺が多くの人々で賑わった様子がわかります。そのため、常夜灯は江戸川の行き交う船や多くの人々の目印の役割もはたしてきたと思われます。
平成21年(2009)、現在地周辺は常夜灯公園として整備されました。

2012年 市川市教育委員会

画像 常夜灯

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画像 行徳船場

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行徳新河岸 新河岸の賑わい

下の写真の案内板より引用。

江戸時代の新河岸(現在地)は、船で往来する人や物資などで賑わう場所で、成田山につながる成田道の起点でもありました。江戸川・常夜灯を背にして、旧行徳街道までの間は、江戸名所図会にも描かれており、その様子がうかがえます(階段上の『江戸名所図会』参照)。
この道筋には、まず番人が詰める施設と掟などが記された高札場や、旅人などが休憩した信楽などの旅館がありました。旅館信楽は、近江国信楽出身者が行徳に移住したことにちなむ呼称です。信楽から道(旧行徳街道)を挟んだ向かいの建物が「笹屋」と言われるうどん屋です。「笹屋」は、江戸時代の文学作品にも記され、源頼朝が訪れた伝承を残しています。
明治時代に入り、江戸川に蒸気船が運行されると、地元では「蒸気河岸」とも呼ばれるようになりました(下図)。「蒸気河岸」の発着場として新河岸界隈は多くの人々で賑わっていました。

画像 常夜灯 新河岸跡

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石灯籠

高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれている。

画像 常夜灯

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灯籠には行き先の「日本橋」が彫られている。

画像 常夜灯2

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画像 常夜灯

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画像 常夜灯公園周辺の地図

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行徳河岸(江戸日本橋の小網町三丁目(現在の中央区))

江戸日本橋の小網町三丁目(現在の中央区)は、「行徳河岸」と呼ばれ、房総方面へ向かう旅人のための船宿や奥川筋(関東・東北地方南部を含む地域の水系の総称)への荷物を専門に扱う問屋が軒を連ね、江戸と行徳を結ぶ舟運ターミナルとして栄えた。

行徳を往来した人と作品

市川市立歴史博物館展示資料より

  • 松尾芭蕉(1644-1694)「鹿島詣」
  • 大田南畝(1749-1823)「遊勝鹿記」
  • 葛飾北斎(1760-1849)「ぎょうとくしほはまより のぶとのひかたをのぞむ」
  • 小林一茶(1763-1827)「寛政三年紀行」
  • 十返舎一九(1765-1831)「南総紀行旅眼石」
  • 渡辺崋山(1793-1841)「四州真景図巻」
  • 大原幽学(1797-1858)「道の記」

 

 

 

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