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河川・水門・橋 江戸川区の歴史

中川船番所資料館に旧中川と小名木川の歴史資料を見に行ってきた

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中川船番所資料館に旧中川と小名木川の歴史資料を見に行ってきた

都営新宿線東大島駅から徒歩5分。東大島駅の大島口を出て、大島小松川公園を右手に歩いていくと資料館(平成15年開館)が見えてくる。
この資料館では、江戸時代に小名木川を通る船の取り締まりを行った中川船番所をはじめ、小名木川、旧中川(昔の中川)の水運、江東区の歴史資料を見学することができる。入館料は大人200円、小・中学生50円である。

画像 江東区中川船番所資料館の外観

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小名木川とは

小名木川は、徳川家康が江戸に入った天正18年(1590)もしくは慶長年間(1596~1615)に、行徳(現在の千葉県市川市)の塩を江戸に運び込むために掘られた水路である。旧中川から(昔の中川)から隅田川まで江東区のほぼ中央を東西にまっすぐ流れる。全長は4640m、最大幅(小名木川付近)約50m、最小幅(丸八橋付近)約26mの一級河川である。

中川船番所とは

中川船番所は、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所。江戸時代前期には小名木川の隅田川口に深川番所が設置されていたが、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転した。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど、小名木川を通る川船の積荷と人をあらためることを目的にしていた。中川対岸の船堀川(現在の江戸川区の新川)から江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要であった。

江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきたということだ。同じような機能をもった番所として、浦賀番所(現横須賀市)がある。明治2年(1869)に全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止された。

中川番所のジオラマ(資料館3階)

画像 中川船番所のジオラマ1

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江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握しているジオラマ

画像 中川船番所のジオラマ2

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小名木村からの眺望(想像図)

海岸線までの距離が近かったことから、江戸湾(東京湾)まで見渡せたのであろう。

中央を下から上に流れるのが中川(現在の旧中川)。中川から右への流れが小名木川。小名木川を進むと隅田川に合流する。
また、中川から左への流れが新川である。新川を進むと江戸川(現在の旧江戸川)と合流する。

画像 小名木村からの眺望(想像図)

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下流(東京湾)方面を撮影。対岸は大島小松川公園。

画像 旧中川の風景

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明治時代の小名木川

明治から大正にかけては、東京市内の運河は常に川船が行きかう状態にあった。大正10年(1910)に東京市が行った調査によると、小名木川の1日の通船数は平均で500~600隻、多い日は900隻の船が通っていたらしい。当時の小名木川は川幅が狭く、干潮時には船が通行できなかった。

(中川船番所資料館の展示資料より抜粋)

下の地図は明治42年の地図

画像 明治42年の地図 新川と小名木川

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時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。

大正時代の小名木川

大正12年(1923)に発生した関東大震災後、政府は復興院を設置し、道路や市街地の区画整理を行った。そのなかには運河の拡張工事も含まれていて、東京市内の水上交通の要である11の河川を改修して、同時に2~4隻の船が航行できるようにした。小名木川は重要河川として、同時に5隻の船が航行できるように計画された。

(中川船番所資料館の展示資料より抜粋)

大正末から昭和初期の小名木川

荒川放水路の開削にともない、小名木川閘門、小松川閘門、船堀閘門が建設される。

参考情報

三閘門一水門付近

下の画像は、荒川治水資料館の前庭に設置されているプレートの一部

画像 三閘門一水門付近

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資料館での展示写真の一部

「小名木川閘門で待つ船」と「小名木川閘門の外で待つ船」

小名木川・船堀川(江戸川区の新川)は、江戸時代から江戸・東京と関東各地を結ぶ重要な水路だった。荒川放水路の完成によって、この水路が遮断されることを防ぐために作られたのが閘門である。

小名木川閘門では1日に約1200艘、1時間に130艘もの船が通過していたため、閘門で待たされる船が多く、交通渋滞を引き起こしていた。そこで、より多くの船を通航させるために、小松川閘門船堀閘門が新たに設置された。

(中川船番所資料館の展示資料より抜粋)

画像 大正末から昭和初期の小名木川

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小名木川閘門の門扉閉塞

小名木川閘門は大正8年(1919)に建設が始められ、大正15年に完成した。閘門の構造は前扉室、閘室、後扉室などからなり、観音開き式のゲートを人力で操作していた。

画像 小名木川閘門の門扉閉塞

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小名木川(江東区)・新川(江戸川区)を通った著名人

小林一茶(1763~1827)

俳人の小林一茶は寛政3年(1791)4月、行徳から江戸に帰る際の出来事を道中記に記しているという。小林一茶『寛政三年紀行』

渡辺崋山(1793~1841)

田原藩(愛知県田原市)家老で画家の渡辺崋山は、文政8年(1825)6月29日に江戸を出立し、行徳へ向かう。渡辺崋山は中川御番所と行徳の風景を残している。渡辺崋山『四州真景』

石川雅望(1754~1830)

狂歌師・国学者の石川雅望は文政5年(1822)3月26日に江戸を出立し、成田方面を旅行して、4月2日に帰宅するまでの1週間を『成田紀行』としてまとめている。石川雅望『成田紀行』

松尾芭蕉(1644~1694)

深川に住んでいた芭蕉は、江戸川(現在の旧江戸川)のおくまんだしの水を訪れ、

茶水汲む おくまんだしや 松の花

という句を詠んだ。熊野神社の境内には、松尾芭蕉の句碑がある。

参考資料

中川船番所資料館ブックレット1『江戸から行徳へ~小名木川・新川と中川番所から』2014

小名木川と旧中川の合流地点の風景

右への流れが小名木川。左上への流れは旧中川である。

画像 小名木川と旧中川の合流地点の風景

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この流れの先は隅田川と合流する。

画像 小名木川と旧中川の合流地点の風景2

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画像 旧中川・川の駅

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