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葛西海岸堤防の歴史と地図

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葛西海岸堤防の歴史と地図

葛西海岸堤防は、江戸時代から明治にかけて地元では「潮除堤」(しおよけつつみ)と呼ばれていたそうだ。
明治4年(1871)7月9日の暴風による高潮では、堤防の大部分が破壊された。地元の村々は小菅県庁から600両を借り受け急場をしのいだらしい。しかし、その後もたびたび高潮が起こり、十分な補修工事も行われないまま大きな被害を受けていた。

キティ台風をきっかけとして葛西海岸堤防が完成(昭和32年完成)

葛西海岸堤防が高潮防御施設として本格的に取り上げられるようになったのは、昭和7年(1932)に江戸川区が誕生(東京市に併合)してからのことだ。護岸堤防を3mの高波に襲われても安全に防御できるように改築する計画が、昭和9年(1934)3月、東京市議会で議決。この事業は江戸川区だけではなく、江東地区全域に及ぶもので、昭和9年度から18年度(1943)に至る10か年事業として進められた。昭和14年(1939)までに約50%が完成していたが、太平洋戦争の戦局激化とともに工事は次第に縮小され、ついに中止された。

終戦後、昭和22年(1947)に、あらためて小島町一丁目から堀江町までの5,010mが葛西海岸堤防として計画された。しかし、資材難と労働力不足のため足踏み状態であった。そのような状況のなかで、昭和24年(1949)8月31日に来襲したキティ台風が満潮時を重なり、AP+3.15m(※)の高波が発生させ、堤防を1,216m破壊、5,065mを決壊させ、6,200人が被災するという大惨事をもたらした。

東京都ではこの経験に基づき、過去の最高潮位である大正6年(1957)AP+4.21mにも耐えられるように、江東地区の高潮防御対策を講じた。このような経緯を経て、昭和26年(1961)の着工から約5年半後の昭和32年(1957)3月に延長4,461mあまりの葛西海岸堤防が完成したのである。このとき、葛西海岸堤防の外側(海側)には地盤沈下によって水没した広大な民有地があった。

A.P.(エーピー)は、Arakawa Peilの略。東京湾霊岸島量水標零位を基準とする基本水準面。荒川、中川、多摩川等の水位の基準。Peilはオランダ語。

下の写真は、現在保存されている葛西海岸堤防。

画像 旧葛西海岸堤防

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急速な地盤沈下による護岸の改修工事(昭和42年改修完了)

このように護岸は完成したが、江東地区の軟弱地盤工業用水くみ上げによる地盤沈下(※)が年々進行し、昭和30年(1955)頃から沈下速度が速まった(堤防の工事中から地盤沈下が進んでいただのである)。それに伴い各護岸も年々沈下し、嵩上げ工事が繰り返されたが、これ以上の工事に耐えられない場所もあらわれた。そこで、昭和32年(1957)を初年度として10か年計画外郭堤防改築事業が開始された。つまり、完成後、即時改築の必要があったのである。

※大正期から昭和期の地下水をくみ上げは、地下水に溶け込んだ水溶性ガスの採掘が目的だった。明治時代から始まった葛西沖地域の地盤沈下は急速に進行した。

ところが、昭和34年(1959)年9月26日に中部地方を襲った伊勢湾台風により甚大な被害が発生し、防災施設に対する不安が全国的に広がり、深刻な社会問題にまで発展した。当時、「もし東京が同規模の高潮に襲われたら、都区内面積の47%が水没し、300万人以上の人々の生命・財産が失われる」との予測が出されたことから、東京都はあらためて「東京高潮対策事業計画」を策定し、緊急3か年計画として昭和38年(1963)から改修工事を始めたのである。

その後、東京都による葛西海岸堤防の工事が進むなか、昭和39年(1964)に葛西漁港が廃止、内湾漁業権を全面放棄がなされた。昭和40年(1965)には葛西海岸が海岸法に基づき海岸保全区域に指定された。

昭和42年(1967)、ようやく高潮のたびに住民を不安にさせていた葛西海岸堤防の延長4,444mにわたる高潮対策工事が完了した。築堤の工法は貼り付け護岸という、旧護岸の前面に新しい護岸を密着させる方法であった。

下の写真では、昭和32年の完成時の高さと昭和42年の改修時の高さの違いがわかる。昭和32年の完成時には、過去の最高潮位である大正6年(1957)AP+4.21mにも耐えられるようにAP+5.3mとある。また、昭和42年の改修完了時にはAP+7.5mと大きく嵩上げされていることがわかる。現在の保存場所は以下の地図を参照されたい。

画像 旧葛西海岸堤防2

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現在保存されている旧葛西海岸堤防の場所。

埋め立てにより葛西海岸堤防の役割が終わる

昭和45年(1970)に、東京都が大規模な埋め立てを伴う「葛西沖開発要綱」を策定。また、昭和46年(1971)に、東京都は葛西沖から羽田沖の海上公園構想を発表。昭和47年(1972)には、葛西臨海公園海浜公園が都市計画公園として計画決定された。東京都は土地区画整理方式による葛西沖の公有水面・水没民有地を含む378haの「葛西沖土地区画整理事業」に着手。葛西沖の埋め立てがはじまり、葛西海岸堤防はその役割を終えたのである。

平成29年の地図

下の地図は、葛西海岸堤防沿いに線を引いたものである。東京メトロ西葛西駅が海岸線の近くにあることが見てとれる。青い線が葛西海岸堤防があった場所。

画像 葛西海岸堤防(平成29年の地図)

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昭和20年の地図

葛西海岸堤防の外(海)側には、地盤沈下によって水没した民有地があった。

画像 水没民有地

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現在の西葛西八幡神社

上の地図に示した旧小島町の鎮守である西葛西八幡神社。

画像 八幡神社

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現在の堤防跡

画像 旧葛西海岸堤防

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画像 旧葛西海岸堤防

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昭和41年の地図

改修改良直前の葛西海岸堤防の地図。

画像 葛西海岸堤防の様子(昭和41年)

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海岸水門(当時の海と左近川との合流地点の現在の姿)

上の地図の左下部分の左近川と海との合流地点にあった水門。

画像 海岸水門

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画像 海岸水門2

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昭和51年の地図

画像 葛西海岸堤防の様子(昭和51年の地図)

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昭和60年の地図

画像 葛西海岸堤防(昭和60年の地図)

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将監の鼻 記念碑

画像 将監の鼻

由来

昔、この地は、“将監の鼻”と呼ばれ、海への玄関口として知られていました。葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを採る船が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリエーションの場としても親しまれていました。
この堤防は、昭和22年のカスリーン台風、続く昭和24年のキティー台風による被害を経て、昭和26年に高潮から内陸を守る目的で建設に着手され、約4.5kmに及ぶ工事が昭和32年に完成しました。以来、幾多の自然の試練からこの地を守ってきました。
しかし、一方では、先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうという、つらい役割も担ってきました。昭和47年からの東京都の埋立事業により、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により、無事にその役割を終えました。海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるため、堤防の一部を残し記念とします。
昭和61年3月

平成5年の地図

画像 平成5年の地図

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下の地図は、地盤沈下によって水没した土地(赤い部分)と埋め立てによってできた現在の土地を示したものである。水没した土地はかなり広いが、それ以上に広く埋め立てられたことがわかる。

画像 水没した民有地

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