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親水公園 河川・水門・橋

古川の歴史と古川親水公園の風景(日本初の親水公園)

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古川の歴史と古川親水公園の風景(日本初の親水公園)

昔、船堀川、橫川と呼んでいた河川があり、この川は、もとは利根川とよばれた江戸川の旧河道だった。天正18年(1590)8月、江戸に入府した徳川家康は、小名木川の開削とあわせて旧河川を連結するなどの改修を行い、江戸~小名木川(江東区)~新川(現在)~古川(現在古川親水公園)~江戸川と結ぶ水路(船堀川)をひらいた。しかし、屈曲が多い古川は、高瀬舟の航行には支障がある川だった。そこで、寛永6年(1629)、支障を避けるために現在の新川橋から東へ、江戸川(現在の旧江戸川)まで一直線に新しく水路を開削した。これ以降、新しい水路を「新川」とよび、元の川を「古川」と呼ぶようになった。新川は、行徳の塩を江戸に運搬するたことから行徳川とも呼ばれ、江戸の繁栄とともにこの水路を利用する舟運が盛んになった。

水運が新川に移り、舟運の絶えた古川は生活の川となり、悪水落としの水路に利用されたが、川沿いには松が枝ぶりを競い、妙勝寺、蓮華寺、真福寺といった寺が並び、そのたたずまいは『江戸名所図会』にも紹介されたそうである。

参考資料 『えどがわ発見!解説シート』(江戸川区公式ホームページ)

古川親水公園

昭和30年代からの都心周辺区の”都市化”は江戸川区の自然環境にも大きな影響を与えていた。開発の遅れによる地価の安さから一気に人口増となり、区内の緑は次々と姿を消し、小川も工場排水と生活排水により汚れ果てていた。昭和44年ごろから全国的に自然回復が叫ばれ、江戸川区においても環境浄化運動・緑化運動が展開されていった。そのなかで、当時悪水落としの水路でメタンガスをふき、ほとんど死んだ川であった古川をよみがえらせるという計画が持ち上がった。『江戸川区の歴史』(1971)には以下の記述がある。

埋め立てて道路にしようという声も多かったが、埋めてしまったら水や緑は二度と帰ってこない。江戸川の水を導入して新しい川によみがえらせようという「親水河川」が計画され、成功した。

昭和48年、都会の中では回復不可能と思われていた生活排水が流れる川が”清流”よみがえった。古川親水公園は日本国内の親水公園の第1号である。昭和49年5月には「全建賞」(※)を受賞。また、昭和57年5月にはナイロビで開催された「国連人間環境会議」で紹介される。

 

※全健賞とは、「建設技術の活用並びに公共事業の進め方や運用の工夫等により、特出した成果の得られた、もしくは、特出した成果を得ようとする事業及び施策を選考し、これを実施した機関を表彰するもの」である(一般社団法人全日本建設技術協会サイト)。

▼明治42年の江戸川区の地図

明治42年の江戸川区の地図

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。

古川親水公園

新川の開削によって生活の川になった古川が現在のような古川親水公園とし整備される経緯が江戸川区公式ホームページに記載されている。

「長い間、田園地帯の水源・水路として活用されてきた古川の流れにも、昭和30年代(1955)後半になると、都市化の波が押し寄せました。周辺に住宅や工場が増え、家庭の雑排水などが流れ込み、やがて悪臭を放つドブ川同然となってしまいました。昭和39年当時は、古川を埋め立てて川幅をせまくし、その土地を売却することを計画しましたが、地元の人たちから是非、この古川を残してほしい、古川に江戸川の水を入れてほしい、という強い要望が寄せられました。区では昭和47年(1972)に「江戸川区内河川整備計画(親水計画)」を策定。「治水」から「利水」、そして「親水」という新しい理念を打ち出しました。全国初の、水と緑に親しめる「古川親水公園」は、昭和49年(1974)4月にこうして誕生しました。水は江戸川より取り入れて浄化滅菌処理のうえ、流しています。」

このように、地域の人たちの努力によって江戸からの歴史ある川が保存されているのである。

古川親水公園の春の風景(桜)

古川親水公園の春の風景

古川親水公園の春の風景

古川親水公園の春の風景

 

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