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旧江戸川の歴史と風景 江戸川水門と常夜灯

旧江戸川の歴史と風景 江戸川水門と常夜灯【江戸川百景44・113】

江戸時代の初期、江戸幕府は水上輸送路を確保するために利根川水系の改修を行いました。その改修の結果、利根川の水が太日河(ふといがわ、現在の江戸川)に流れるようになり、現在の江戸川の原型が出来上がりました。明治に入ると、鉄道輸送が水上輸送に代わりました。多くの河川は洪水防止を目的に改修されるようになったのです。

明治43年(1910年)に利根川水系に起きた大きな洪水をきっかけに、政府は利根川から江戸川へ流れる水を増やす「江戸川改修工事」を大正3年(1914)に着手します。大正5年(1916)には千葉県の行徳を貫く開削に着工しました。この開削は大正8年(1919)に竣工し、その後、新たに開削した川を「江戸川放水路」、また篠崎から下流の旧流路を「旧江戸川」と呼ぶようになりました。その後、江戸川放水路は「江戸川」と改称されました。

関連情報
>>>「江戸川の歴史と江戸川堤防の風景」を見る

今井橋上から旧江戸川の上流方面を臨んだ風景です。中央の煙突は江戸川清掃工場のもの。

画像 今井橋上から旧江戸川の上流方面を撮影

明治42年(1909年)と平成28年(2016年)の地図を重ねたもの

明治42年の地図では、江戸川放水路(右側への分岐)がないことが確認できます。江戸川の形も現在とはかなり変わっています。

明治42年と平成28年の地図を重ねたもの

大正6年(1917年)の地図

大正6年の地図では、江戸川放水路の工事が進んでいることが確認できます。

大正6年の地図

以上2つの地図は時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成。

参考文献
江戸川区教区委員会(2008)『江戸川区の史跡と名所』

江戸川水閘門 旧江戸川と江戸川放水路(江戸川)との分岐点の風景

前方に見えるのが江戸川水閘門です。この水門と閘門は、昭和11年(1936)に着工して、当時総工費586万円をかけて昭和18年(1943)に完成しました。一般には「篠崎水門」と呼ばれています。水門は鉄筋コンクリート造りで、幅員10m、高さ5.5mのものが5連あって電動開閉の引揚鉄扉がついています。閘門は鉄筋コンクリート造り、有効幅員11m、高さ5.5mの引揚鉄扉つきで、船の通行のために設けられています。

篠崎水門周辺の桜は、日露戦争の戦勝記念として植樹されたのがはじまりで、一時は数百本になったと伝えられています。

画像 江戸川水閘門

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江戸川水閘門

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江戸川水閘門

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江戸川水閘門

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江戸川水門から旧江戸川の下流方面をのぞむ

画像 江戸川水門から旧江戸川の下流方面をのぞむ

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常夜灯公園(市川市行徳)

常夜灯

江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは寛永9年(1632)と言われています。本行徳村は、航路の独占権を持ち、ここに河岸を設置しました。船は毎日午前6時から午後6時まで運航されたようです。この船は一般に「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれました。

文化・文政期(1804~1830)になると、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増え、江戸との往来がますます盛んになりました。

この常夜灯が立つ場所は”新河岸(しんかし)”と呼ばれ、房総と常陸への街道の起点であり、北関東や東北からの水運による江戸への物資輸送の中継点でもありました。房総の海産物、北関東の野菜、行徳の塩など多くの物資が集まった場所です。

また、この場所は、江戸時代に江戸と房総や北関東、東北地方へ、人の輸送を結ぶ拠点でもありました。江戸日本橋小網町→小名木川→新川→旧江戸川を経て行徳新河岸(日本橋小網町から行徳新河岸まで約12.6キロメートル)で上陸し、鹿島街道、佐倉街道(現千葉街道)、成田街道へ向かったのです。

>>>「行徳の塩 江戸川~小名木川で江戸に運ばれた」を見る

行徳河岸(江戸日本橋の小網町三丁目(現在の中央区))

江戸日本橋の小網町三丁目(現在の中央区)は、「行徳河岸」と呼ばれ、房総方面へ向かう旅人のための船宿や奥川筋(関東・東北地方南部を含む地域の水系の総称)への荷物を専門に扱う問屋が軒を連ね、江戸と行徳を結ぶ舟運ターミナルとして栄えました。

元禄3年(1690)に景観整備されたといわれています。常夜灯は文化9年(1812)に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が航路安全を祈願して成田山に奉納したものである。

画像 常夜灯

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下の写真の案内板より引用。

市指定 常夜灯 有形文化財(昭和35年10月7日指定)
この常夜灯は、文化9年(1812)、江戸日本橋の成田講中成田山新勝寺への講)の人々がたてたものです。成田講中が航路安全を祈願して建てたと推察されます。なお側面には協力した人々の名前が刻まれています。江戸時代、成田山新勝寺には江戸から多くの人々が参詣しました。行徳は、江戸から成田にかけての重要な中継地点でした。
左下の図は、『江戸名所図会』に描かれた現在地の景観です。左隅に常夜灯と思われる灯籠が建っています。江戸時代後半の記録にも、常夜灯は「川岸に立つ」とあります(『葛飾誌略』)。また図には、現在のような堤防は描かれておらず、船から降りた人々は高低差の小さな地から陸地にあがったとみられます。
そして、常夜灯付近の現在地を新河岸(船着場)とも呼びました。
「新」の字が示すように、元禄3年(1690)、図にあるような景観が整備されたと推察されます(『葛飾誌略』)。また、この地から江戸に向けて船が行き交っていました。一般に、この船は行徳船と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由し、日本橋小網町まで就航していました(約12.6キロ)。成田講中の人々や行徳産の塩も、行徳船を利用して江戸に運ばれたようです。
また有名な人物として、松尾芭蕉(俳人)渡辺崋山(田原藩家老)なども行徳を訪れています。特に渡辺崋山は『四州真景図巻』という作品の中で常夜灯及び周辺景観をスケッチしています。
明治時代になると、江戸川には蒸気船がみられるようになります。
『成田土産名所尽』という記録には、明治以降の常夜灯の周辺の様子が描かれています。常夜灯周辺が多くの人々で賑わった様子がわかります。そのため、常夜灯は江戸川の行き交う船や多くの人々の目印の役割もはたしてきたと思われます。
平成21年(2009)、現在地周辺は常夜灯公園として整備されました。

2012年 市川市教育委員会

行徳を往来した人と作品

  • 松尾芭蕉(1644-1694)「鹿島詣」
  • 大田南畝(1749-1823)「遊勝鹿記」
  • 葛飾北斎(1760-1849)「ぎょうとくしほはまより のぶとのひかたをのぞむ」
  • 小林一茶(1763-1827)「寛政三年紀行」
  • 十返舎一九(1765-1831)「南総紀行旅眼石」
  • 渡辺崋山(1793-1841)「四州真景図巻」
  • 大原幽学(1797-1858)「道の記」

以上は市川市立歴史博物館展示資料より引用

画像 常夜灯

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画像 行徳船場

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行徳新河岸 新河岸の賑わい

下の写真の案内板より引用。

江戸時代の新河岸(現在地)は、船で往来する人や物資などで賑わう場所で、成田山につながる成田道の起点でもありました。江戸川・常夜灯を背にして、旧行徳街道までの間は、江戸名所図会にも描かれており、その様子がうかがえます(階段上の『江戸名所図会』参照)。
この道筋には、まず番人が詰める施設と掟などが記された高札場や、旅人などが休憩した信楽などの旅館がありました。旅館信楽は、近江国信楽出身者が行徳に移住したことにちなむ呼称です。信楽から道(旧行徳街道)を挟んだ向かいの建物が「笹屋」と言われるうどん屋です。「笹屋」は、江戸時代の文学作品にも記され、源頼朝が訪れた伝承を残しています。
明治時代に入り、江戸川に蒸気船が運行されると、地元では「蒸気河岸」とも呼ばれるようになりました(下図)。「蒸気河岸」の発着場として新河岸界隈は多くの人々で賑わっていました。

画像 常夜灯 新河岸跡

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高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれています。

画像 常夜灯

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石灯籠

高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれています。

画像 常夜灯

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灯籠には行き先の「日本橋」が彫られています。

画像 常夜灯2

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画像 常夜灯

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画像 常夜灯

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画像 常夜灯

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補修されている石灯籠。案内板に補修の記述はありません。

画像 常夜灯

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画像 常夜灯公園周辺の地図

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市川市側から撮影した旧江戸川の風景(江戸川区)

下の写真は株式会社大戸造船所(江戸川区)です。

イズミ・マリーン

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画像 イズミ・マリーン

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旧江戸川 

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江戸川区側から撮影した旧江戸川の風景(対岸は市川市)

旧江戸川の風景

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旧江戸川の風景

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旧江戸川と新中川の合流地点の風景

左からの流れが旧江戸川。右の流れは新中川。写真奥(東京湾方面)に向かって流れています。

旧江戸川と新中川の合流地点の風景

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>>>「新中川の歴史と風景 中川との分岐地点と旧江戸川との合流地点」を見る

今井の渡し旧跡(市川市行徳)

このあたりには昔、今井の渡しがありました。この今井の渡しは明治45年に橋が架かるまで利用されていたそうです。千葉県側の旧跡の案内板には以下のような記述があります。

今井の渡し旧跡

寛永8年(1631)10月に許可された川幅114間(約207メートル)、水幅60間(約109メートル)の渡し。大正元年(1912)初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
連歌師柴屋軒宗長が永正6年(1509)浅草から船に乗り今井の津頭(わたしば)で下船、紀行文『東路の津登』で紹介したのが文献上のはじまりです。
江戸時代になっていたからは、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていました。正保元年(1644)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女二人久三郎とイネが駆け落ちしてきて禁を犯して今井側へ渡ろうとして捕らえられて船頭とその女房を含めて五名が磔の刑に処されました。
今井の渡し場から一丁(約109メートル)下流にあった磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が立てられて「ねね塚」といわれましたが、何れの頃かの洪水でその所在は不明になったとされています。(『葛飾誌略』)

画像 今井の渡し旧跡

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ねね塚の旧跡

「生実の城主」である森川半彌の家来であった「久三郎」と「イネ」が、駆け落ちをしてこの江戸川を船で越えたというもの。鎌田村の者と当村の者がこの二人を法外の渡し賃を取って渡したらしい。「渡し場見懲らしめのお仕置き」として、男女両人、船頭両人、当村某の女房一名、合わせて5名が磔(はりつけ)の刑になったということです。

画像 旧江戸川 ねね塚の旧跡

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ねね塚の初見は『葛飾誌略』(1810年)です。
渡しとは、今井の渡しを指します。

「磔場。この渡下一丁(約109メートル)ばかり、いま字のように成れり。この由来を尋ねるに、正保元甲申(1644)年生実の城主森川半彌様御家来男女二人、久三郎とイネ駆落ち、この川を舟で越えす。船頭両人、鎌田村某当村某、この両人法外の価を取り船を渡したり。もっとも、渡船にては渡さずといえども、渡し場見懲らしめのお仕置き成され、男女両人船頭両人とも、ならびに当村某の女房、共に五人同罪になり、村方二人は菩提所へ引き取り葬る。両人はこの所へ埋む。印には石地蔵を立て、ねね塚といへり。何れの頃か洪水に川へ埋もれたりと、云々」とあります。

旧江戸川にかかる東京メトロ東西線の鉄橋

左側が江戸川区、右側が千葉県。下流から上流に向かって撮影。奥は東京メトロ東西線の鉄橋。

旧江戸川の風景

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画像 旧江戸川

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画像 旧江戸川の下流

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画像 旧江戸川の下流

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画像 旧江戸川

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旧江戸川での川漁

画像 旧江戸川の川漁

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画像 旧江戸川の下流

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画像 旧江戸川

左が上流、右が下流。

旧江戸川の風景

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舞浜大橋

国道357号が旧江戸川河口を渡る鉄橋であり、昭和59年(1984)に北側、平成2年(1990)に海側の橋が架けられました。並行して高速湾岸線とJR京葉線が通っています。この橋を渡ると千葉県です。

画像 舞浜大橋

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画像 舞浜大橋からみた旧江戸川の風景

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千葉県側の橋上から撮影した旧江戸川の風景です。

画像 舞浜大橋からみた旧江戸川の風景

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江戸川区側の橋上から撮影した旧江戸川の風景です。

画像 舞浜大橋からみた旧江戸川の風景

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JR京葉線の鉄橋

舞浜大橋と並行に走る鉄橋(葛西臨海公園東端から撮影)。

画像 JR京葉線の鉄橋

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旧江戸川の河口付近(葛西臨海公園の東端から浦安市方面をのぞむ)

画像 旧江戸川の河口付近の風景

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葛西臨海公園からの富士山

画像 葛西臨海公園

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